全国の書店員さんが、もっともお勧めの本を紹介する連載「わが店のイチオシ本」。
第55回は、神奈川県川崎市高津区にある文教堂溝ノ口本店の文芸書担当・田部井誠さんのご登場です。
今回、田部井さんが紹介してくださったのは、精神科医で、トラウマ研究の第一人者でもある宮地尚子さんのエッセイ集『傷を愛せるか』です。
宮地さんが、バリ島の寺院やブエノスアイレスの郊外など、旅のなかで思索をめぐらせた本作によって、心の傷との向き合い方が変わったという田部井さん。「傷と向き合うすべてのひとに届いてほしい」という作品の魅力について、綴っていただきました。
傷を愛せるか 増補新版
著者:宮地尚子
発売日:2022年9月
発行所:筑摩書房
価格:792円(税込)
ISBN:9784480438164
この本を渡せたら、人の心のつらさを少しは和らげることができるのかもしれない
人の心が非常に脆く、すぐに傷が付いてしまうものだと知ったのはいつだっただろう。底抜けに明るく、色々と相談に乗って私を救ってくれた恩人が身内の不幸を機に、日に日に心を病んでいく姿が思い出される。本当につらそうにしている恩人に、私は何かしてあげられたんだっけ。肝心なところは思い出せない。印象に残っていないということは、おそらく私はなにもできなかったのだろう。
古い思い出に浸りながら……、今回ご紹介するのは、当店催事コーナーでも大きく展開している、宮地尚子さんの『傷を愛せるか』だ。
著者はトラウマ研究の第一人者で、自身も精神科の医師として臨床を行っている、いわば心の傷のプロフェッショナル。本書は、著者自らの体験やそれに紐づき湧き起こる想念や考察を綴ったエッセイ集なのだが、そこにはひとの心の傷や痛みに対し、専門家ならではの冷静な知見が、正直でまっすぐな文体で描かれている。
「傷」というテーマを扱っていながら、全体的な雰囲気は暗くはなり過ぎず、ひとつひとつの話の読後感は、いつもあっさりとしている。文章に押しつけがましさが一切ないからだろうか。自身の心の動きさえ冷静に分析し、ただ起こっている事象をそのまま伝えよう、という著者の文章は透き通った水のようで、スッとダイレクトに読者の心に沁みわたる。
例えば著者は心の傷と向き合う上で、その治療はプロの精神科医であっても難しいと言う。心の傷の治癒には、本人の立ち直りたいという力(本来持っている力を思い出し、よみがえらせ、発揮する力)に寄与するところも、多分にあるからだ。
しかし、著者は言う。「何もできないかもしれないけれど、見つめている事はできる」と。クライアント(患者)が傷付いていることを認め、それを見守ること。そしていつか治るように、幸せになるように祈りを込めて、包帯を巻くように傷の手当てをすること。それは手当てされた痕を残すだけで、何にもならないかもしれない。でもその痕はクライアントに対し、ずっと寄り添いつづける。母の慈しみの眼差しのように。『傷を愛せるか』というタイトルの意味がそこにあるのではないだろうか。
人はちょっとしたことで傷付く。それはまた、意図していなくても、何気ない一言や振る舞いで、自分が容易く人を傷付けてしまうことと同義である。「傷」はいつも身近にあって、生きていく上で避けて通ることができない。つまり人は生きている限り、「傷」からずっと逃げられないのだ。
そんな傷付き傷付けやすい私たちにとって、著者のこの心の傷への向き合い方は、今後生きていく上で、大いに救いとなるのではないだろうか。タイムスリップして、古い思い出の中の私にこの本を渡せたら、恩人の心のつらさを少しは和らげることができたのかもしれない。
誰かのために祈ることが自分の救いになることもある。この本が、傷と向き合うたくさんの「あなた」に届きますように。私も、祈りを込めて。
◆作り手からのメッセージ◆
本書のいちばんの魅力は、当事者の方たちの目線から書かれていることにあります。言葉を選び、こころの底にある微かな感性をすくいとり、感受性の入射角を当事者に近づけています。だから、当事者の方が本書を読まれても傷つかないのです。「ここには私のことが書かれている」と共感し、本書の洞察に深くうなずくのです。伝統的な精神病理学は、当事者を突き放して、あくまでも正常な傍観者として観察していることと比べると、本書がいかに特別な一冊であるかがわかると思います。
(筑摩書房 ちくま文庫編集部 永田士郎さんより)
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