「SP」「シン・ゴジラ」「ひよっこ」など、数々の映画やTVドラマで知られる個性派俳優の松尾諭さん。その波乱に満ちた人生をしたためた“自伝風”エッセイ『拾われた男』がそのおもしろさで話題となりました。
今回は、そんな松尾さんが上京する前のお話。地元・大阪の書店の思い出についてエッセイを寄せていただきました。
松尾 諭
まつお・さとる。1975 年兵庫県生まれ。映画・ドラマで存在感ある脇役として活躍中。出演映画作品に「テルマエ・ロマエ」「シン・ゴジラ」、ドラマ作品に「最後から二番目の恋」「デート」「ひよっこ」など多数。
大きな男
関西にいるときは、キノクニヤと言えば書店の代名詞だった。なので上京した当初は、キノクニヤと言えば高級スーパーマーケットだと言う人が少なからずいて驚いた。それはさておき、書店にまつわる記憶を振り返ってみると、阪急梅田の紀伊國屋書店の思い出がいくつもある。
初めて行ったのは10歳かそこらで、恐らく母に連れられて行ったのだろう。とにかく広く進めども進めども出口には至らない、まるで書棚の迷路のような店内は、異世界に入り込んでしまったかのようで子どもながらに恐ろしかった。
中学生になり、1人で行くようになると、まだ受け入れてもらえない大人の世界のような店内をワクワクドキドキしながら徘徊し、電話帳のような学術書、意味は分からないがなんだかオシャレな海外のデザイン本、壁一面にぎっしりと詰め込まれるように並ぶ官能小説などなど、多種多様な書籍をパラパラとめくり、思春期の未開発な部分は上から下まで刺激された。だがその当時、紀伊國屋で本を買うことはなかった。ろくに小遣いもなかったので、冒険のように店をうろついていただけだ。
高校生になると、梅田の映画館に行く前の時間つぶしに紀伊國屋に寄って立ち読みをし、映画を観終わり家に帰る際にも紀伊國屋の店内を抜けて阪神梅田駅まで歩くのが常だった。その頃に出合ったのが『ヒッチコック映画術』という本で、心を揺さぶられた一冊だった。
映画監督フランソワ・トリュフォーによる巨匠アルフレッド・ヒッチコックへのインタビューをまとめたその本は、内容は少し難しかったが、ただ持っているだけで映画通になれるかのような輝きを放っていたので「読みたい」というよりはとにかく所有したかった。だが立派な装丁のその本は、値段も立派だったので、店に行くたび手に取り、パラパラとめくっては裏表紙に記された値段とにらめっこし、時にはレジ前に並ぶまでに至ったが、いつも金額の重さに負けて棚に戻した。そのうちに熱も冷め、結局買う事はなかった。
阪急梅田の紀伊國屋書店の入り口の上には、待ち合わせ場所の定番中の定番「ビッグマン」と呼ばれる大型ビジョンがある。大学に入るとサークルの飲み会や女子大生との合コンの待ち合わせに頻繁にビッグマンを利用したが、店に入る事はあまりなかった。大学へは1年余で行かなくなり、西成に引っ越してからは阪急沿線に縁がなくなったので、紀伊國屋書店からもすっかり足が遠くなった。
最後に紀伊國屋を訪れたのはその3年後。役者の道を進むべく上京を決意し、夜行バスで梅田から東京へと発つ直前だった。時間つぶしに入った店内で、演技のメソッドを記したような本をいくつかパラパラと読んではみたものの、あまり理解もできなかったし、荷物になるので結局買いはしなかった。
店を出てビッグマンを見上げ、いつか大きな男になって帰ってくると意気込んだなんて事はないし、そもそも役者として生計がたてられるようになるとすら思ってもいなかった。もちろん本を出版することになるとは露程も考えてはいなかった。
あれから21年が経った。先日、担当編集者から『拾われた男』を置いてくれている書店にサインを書いて欲しいと、十数枚の色紙と書店のリストを渡された。そのリストの中に紀伊國屋書店・梅田本店の名前を見つけた時は、故郷に錦を飾れた気になって少しニヤついた。思い返してみると、その店で本を買った記憶はほとんどないが、子どもの頃から馴染みのある書店に自分の書いた本が置かれていると知り、嬉しさと懐かしさがこみ上げた。
折よく8月、ドラマの撮影のために大阪に行くことになった。さして大きな男になったわけでもないが、なんとか時間を作って梅田に寄り、思い出深い本屋に置かれる拙著をパラパラとめくりに行こうと思う。
著者の最新刊
- 拾われた男
- 著者:松尾諭
- 発売日:2020年06月
- 発行所:文藝春秋
- 価格:1,650円(税込)
- ISBNコード:9784163911519
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〈文藝春秋BOOKS『拾われた男』より〉
(「日販通信」2020年9月号「書店との出合い」より転載)