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村上春樹『街とその不確かな壁』で編集者が最初に心をつかまれたのは

4月の発売ながら2023年上半期ベストセラー総合第1位(日販調べ)に輝いた、村上春樹さんの『街とその不確かな壁』。前作『騎士団長殺し』以来6年ぶりとなる新作長編で、電子書籍を含む累計発行部数は40万部を超えています。

村上さんが40年間封印してきた“物語”をもとに書かれたことでも話題になっている本作。その成り立ちと広がりについて、この小説の担当編集者である寺島哲也さんに文章を寄せていただきました。

 

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街とその不確かな壁
著者:村上春樹
発売日:2023年4月
発行所:新潮社
価格:2,970円(税込)
ISBN:9784103534372

十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。

(新潮社公式サイト『街とその不確かな壁』より)

 

街と壁、コールリッジの夢、そしてガルシア=マルケス

長編『街とその不確かな壁』の原稿を手渡されたのは秋の夜、空に大きな月が浮かんだ日だった。

それから数か月後。新作長編が書店に並んだ4月13日には、夜空にくっきりと下弦の月が浮かんでいた。

村上春樹作品と月——『1Q84』に出てくる2つの月のように、村上ワールドに月が登場すると、何か不思議なことが起こる。そういえば、『騎士団長殺し』の第2章のタイトルは、「みんな月に行ってしまうかもしれない」ではなかったか。

今回の装幀カバーは、夜空のような黒地に白抜きのタイトル文字、タダジュンさんの金色の版画が星座の絵のように浮かんでいる(カバー表4の猫の版画も可愛いので、ぜひご覧ください)。

厚さ34mm、瀟洒な小箱のようなこの本は、「村上ワールド」が繊細に凝縮され、村上ファンならずともその物語世界に引き込まれる。すでにSNSや新聞・雑誌の書評で、1980年発表の中編小説や1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』との関連が論じられ、世代を超えて多くの読者が感想を語り合っているが、あらためて村上文学の静かな磁力を実感する。

この小説は1980年と1985年の小説を語り直し、さらに深く書き継いで、「村上春樹の秘密の場所」に読者をいざなう。第一部では17歳の「ぼく」と16歳の「きみ」の みずみずしい恋が描かれ、第二部は福島県の山あいにある小さな町の図書館が舞台となる。

『街とその不確かな壁』という題名を初めて見た時の驚きは、今も言葉では説明できない。

金色の獣と高い壁に囲まれた謎の街が、記憶の彼方から現われ、一瞬のうちに時間が1980年と1985年に遡(さかのぼ)っていった。

そして、題名に続いて心を強くつかまれたのは、原稿の1頁目に置かれたエピグラフの文章だった。

サミュエル・テイラー・コールリッジの幻想詩「クブラ・カーン」。このエピグラフの世界に引き込まれ、コールリッジの詩集をすぐに買い求めた。

その地では聖なる川アルフが
人知れぬ幾多の洞窟を抜け
地底暗黒の海へと注いでいった。

 

クブラ・カーンとは、モンゴル帝国のクビライ汗(ジンギス汗の孫)であり、この詩の原題は“Kubla: Or, a Vision in a Dream―A Fragment”「クーブラ・カーン あるいは夢で見た幻想――断章」(岩波文庫版の題名)というもので、まさに「街と壁の物語」を想像力豊かに幻視していた。

村上さんの小説は、物語に登場する文学作品がいつも注目されるが、今回はコールリッジの幻想詩とガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』がそれに当たる。

ガルシア=マルケスのマジック・リアリズム。生者と死者、現実と非現実が入り混じる世界……。

先日、都内のある書店に足を運ぶと、そこにはこの2冊が今回の新作長編と並んで、平積みになっていた(残念ながら、隣のカフェに林檎のタルトとブルーベリー・マフィンはなかったが)。その光景は本好きの一人として忘れがたいもので、思わずスマホで写真を撮った。

現在、『街とその不確かな壁』は、電子書籍と合わせて40万部を突破し、さらに読者が広がっている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み直している読者も多く、海外でも翻訳が待たれていると聞く。

コロナ(COVID-19)の時代に書かれた今回の長編は、海外の若い文学者、音楽や映画、アニメーションなど他の分野のクリエイターにも読んでもらいたい……。
春の月を眺めながら、いまそんな夢想をしている。

(新潮社 特別編集委員 寺島哲也)

 

刊行時に著者から寄せられたメッセージ