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「この世界をよく理解するって、どういうことだろう?」“科学ぎらい”にこそ読んでもらいたい本『父が子に語る科学の話』

父が子に語る科学の話

「科学ぎらい」にこそ読んでもらいたい本

大人になるにつれ、いろんなものと少しずつ和解してきた。例えば大学進学時に「法律なんて私は好きにならないだろう」と思って資料を取り寄せもしなかったが、大学卒業間際に法学部の友達の姿を見て自分の食わず嫌いを恥じた(法律の側が私を許してくれたかはわからないし、そもそも気にも留めていないかもしれないが、少なくとも、私は態度を改めた)。

つまり、わだかまりや先入観から自由になり、まっすぐ見つめると人生がとても愉快になるものが、世界にはいっぱいある。「科学」もその1つだ。もっと早くに仲良くなりたかった……いや、今からでも仲良くなれて、私はうれしいよ。そう思わせてくれる本が『父が子に語る科学の話 親子の対話から生まれた感動の科学入門』だ。

題名の「感動」を私なりに解釈すると、次のようなものだ。まず、科学を大きなお屋敷だとする。どこから入っていいのかわからない要塞のようなお屋敷だが、ふいに、とてもすてきな門に案内され、感動するのだ。自分もゲストの一員として迎え入れてもらえたような、温かく誇らしい気持ちで、よく手入れされた古い門をくぐる。

この本は、著者のヨセフ・アガシが8歳の息子アーロンと科学史にまつわる対話を重ねるかたちで構成されている。コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、ファラデー、アインシュタイン……彼らが行ったことを、科学と哲学の視点から語り合う。このアガシ親子のやりとりが実に根気強い。こんな感じだ。

まず、アガシはアーロンに「ただ科学者であるというだけで、科学者を信じてしまうのはとても非科学的なことだ。単に教師だからという理由で教師を信じてしまうことがとても非科学的であるのと、ちょうど同じように、だ」と指摘する。そして次のようなやりとりが生まれる。

科学者といえどもまちがいをおかすことを知っているとしたら、なぜアーロンは科学者を信じるのだろう。
━━うーん、でも科学者はほとんどの場合、まちがうことはないでしょう?
では、コペルニクスの理論を考えてごらん。その理論によると、太陽が宇宙の中心にあって、惑星は太陽のまわりを円軌道で動いているという。アーロンはこの理論が正しいと思うかい?
━━太陽は宇宙の中心にはないよ。太陽は太陽系の中心、少なくとも、ぼくたちの太陽系の中心にあるんだ。
では、コペルニクスはまちがったことを言ったのだね。
━━うん。
だとすると、ほとんどの場合、科学者がまちがうことはないというのは、あまり正しいとは言えないのではないかな? なぜなら、科学者であるコペルニクスの言ったことがまちがっていたのだから。
(『父が子に語る科学の話』50・51ページ)

「なんでだ?」と髪をくしゃくしゃにしたくなるくらいおもしろい。そして対話というのはQ&Aとはまったく違うものなのだと数ページ読んで思い知るはずだ。

親子の対話はとても粘り強いのに、軽々と時代を飛び越え、科学者たちの挑戦と思想に踏み込んでいく。そして必ず自分に戻ってくるのだ。なぜ私は科学者を信じるのか、そしてなぜ科学者の説は更新されて進歩していくのか。現代になっても消えるどころか増えている迷信と、科学は何が違うのか。そうしたことが、自分の物語として必ず手元にやって来る。

そしてこんな美しい世界も見せてくれる。ガリレオがいかにして「月の山」を見つけたかを、アガシは対話によってあざやかに再現する。

アーロンが月にいるとして、山と谷を見たら、どのように見えるかわかるかい?
━━初めに山が明るくなって、それから少し遅れて、谷が明るくなる。
では山がすでに明るくてまだ谷が明るくなる前、谷はどのように見えるかな?
━━暗いよ。
ガリレオの心の中に浮かんだことはまさにこのことだ。もし人が月の端に暗い影を見たら、遅かれ早かれその暗い影は消えるだろう、なぜならそこは月の谷であって、そこに太陽の光が差し込むからだ、とガリレオは言った。
ガリレオの心の目には、月に旅行し、月の谷に立って、太陽が谷に光があたるところまで、のぼってくるのを待っている自分が映ったのだ。かれは実際に月に旅行したのではなく、望遠鏡を使った。望遠鏡を通してかれは、暗い点が消えていくのを見て、月に山があることを理解したのだ。
(『父が子に語る科学の話』60ページ)

うっとりしたかとも思えば、アガシのこんな冷静で救いのない言葉に黙りこくってしまう。

━━だけど、もし人々がまちがっていることを明らかにすると火あぶりになるかもしれないなら、自分に同意してもらえるようにかれらに示すことが重要だね。
賛成はできないね。だれかを火刑に処すような人々は、たとえかれらのほうにまちがいがあることを示したとしても、同意してはくれないだろう。人を火刑に処すような人々は、自ら進んで他人の話に耳を傾けるような人々ではない。これがガリレオの時代のやり方だったのだ。
(『父が子に語る科学の話』61ページ)

テスト前夜に「ガリレオは慣性の法則を見つけて、地動説を証明して、人工衛星をどうしたんだっけ……?」と覚える(そしてテスト後にキレイに忘れる)なんていう、まさに非科学的な付き合いを続けて科学を見失った過去の私に届けてやりたい本だ。

 

学者はまちがわないのか

アガシとアーロンの対話には、次のカーブがどちらに向かっているのかわからないスリリングさがある。たとえばアンペールの電磁石の物語は、ニュートンとエルステッドを巻き込みながら、あれよあれよと転がっていく。

アンペールは、ニュートンが正しいと信じ、磁気は電気の一形態だと信じた。(中略)
これは「アンペールの仮説」として知られている。アンペールはまた、針金にコイルを巻きつけ、それに電流を流すと、そのコイルを巻いた針金が磁石のようなはたらきをするということを発見した。この磁石が電磁石だ。
━━じゃあ、アンペールは、エルステッドがまちがっていて、ニュートンが正しいことを示したくて、電磁石を発明したんだ!
まさしくそうだ。アンペール以後、人々はニュートンとエルステッドのどちらが正しいのかわからなくなった。ニュートンがまちがっていたことに科学者たちが気づくには、ほぼ一〇〇年かかった。(中略)
だけど、ニュートンが正しいことを示そうとして電磁石を発見したアンペールは賢くないかい? また、ニュートンがまちがっていたにもかかわらず、かれを擁護しようとしてアンペールが偉大な発見をしたのは、とても奇妙なことではないかい?
━━うん。このことは、ニュートンを含めだれもがまちがいをおかしたことを示しているけど、かれらが言ったことの少しは正しかったことも示している。
科学がいかに奇妙なものかも示していると思うね。われわれはあらゆる可能性を追求しなければならないのだ。(『父が子に語る科学の話』234・235ページ)

ここで冒頭の「ただ科学者であるというだけで、科学者を信じてしまうのはとても非科学的なこと」が効いてくる。同時に、「科学はまちがっていない」が、いかにまちがいであるかをも語る本だ。まちがっていることの深い値打ちを示している。つまり科学史とは正解が並ぶショウケースではなく、むしろまちがいを乗り越えて育ってきたものだとわかるのだ。そして対話を重ねたアーロンは、お父さんからの「非科学的だよ」という指摘を理解するだろう。

本書の読み方としては、1ページ目からゆっくりキャラメルをなめるように読むのが一番楽しいと思う。アーロンが「わからない」と途方に暮れるときは私も「わからない」と思い(ただ、アーロンは私よりはるかに科学に詳しい。なにせ彼は加速器を知っている8歳なのだ)、そんな私たちに、アガシは教科書や検索のようなイージーな形で答えを示すことなく、一緒に根気強く考えてくれる。だって科学をこんな風に捉えている人だから。

科学でとりわけワクワクするのは、科学がどこへ向かっているのか、いつでもわれわれにわかっているわけではないことだ。結局のところ、もしもアーロンが、自分がどこに向かっているのかを正確に知っているなら、あまり面白くないだろう? 答えを探したくなるのは、問題があるときだけだ。
(『父が子に語る科学の話』223ページ)

(レビュアー:花森リド)

父が子に語る科学の話 親子の対話から生まれた感動の科学入門
著者:ヨセフ・アガシ 立花希一
発売日:2024年07月
発行所:講談社
価格:1,210円(税込)
ISBNコード:9784065368497

※本記事は、講談社BOOK倶楽部に2024年8月12日に掲載されたものです。
※この記事の内容は掲載当時のものです。