財布の開き方を忘れた男が恋をする
欲望のおもむくままに欲しいものを買いまくって生きてきた人間からしてみれば、きちんと貯金をしている人は尊敬の対象なのだけど、同時に「話、合わないだろうな」と用心深く薄く線を引いている。
こういうつまらなそうな顔をしちゃうのが怖いのだ。「そうだね! ゆっくり考えよ!」ってカクカクうなずきながら笑顔かつ高速で話を切り上げている。買ってする後悔と買わないでする後悔、どっちが辛いかって話であり、私には後者の痛みの方が耐えがたい。そして痛みのツボが違うことをどれだけ受け入れられるかは、その相手に対する興味や愛情の量に比例する。つまり「私はあなたに関心がない」と悟るのが怖いのだ。消費の話は価値観の地雷原だと思う。
たとえば、『カシコイ』の1ページ目はめちゃくちゃキツい。主人公の“大牙”は5年前に失恋している。
買う買わないの話でつまんなそうな顔をしていた彼女との別れの瞬間、大牙に投げられる全ワードはとにかく冷たい。「関心がない」わけじゃないかもしれないけれど、「勝手やし」と関係をぶった切るくらい、大牙を受け入れる余地はなかったのだと思う。
その点で考えると、大牙の次の恋は上手くいくんじゃないかなあ、なんて脳天気に期待している。
財布の紐がコチコチに固い彼が恋した相手は大の浪費家。お互い「わかんねえ」と思う点はたくさんありそうだけど、その危うさがとてもいい。それにほら、ドケチ男が300万円も払うんだし! で、何にお金を払っているの?
この人は欲しがれる人なんだ
就職を機に地元を離れ上京したドケチ男こと大牙は、あの冷たい別れから5年経った今もなお、元カノから言われた「東京行っても何も変わらんよ。何も見つからん」をひきずっている。ほぼ呪いである。
そんなこんなで、欲望と出会いが渦巻く東京にいながら、当時と同じく欲しいものを買えず、恋人も作らず、ただただ貯金だけがモリモリ増えている。
これはモテないだろうなあ。でも、大牙の「欲しいけど買えない」様子は、かなり胸に迫るものがある。ドケチの苦悩を垣間見た。
そんな彼の前に現れた“羊”さんは貪欲な人だった。
「お金が貯まる=好きな物沢山買える」って認識がすがすがしい。浪費家ならではのマインド!
羊さんは大牙の暮らすアパートの隣人だ。興味のあるものにグイグイ近づいて、欲しいものをガマンできない。羊さんが何かを欲しがる描写が明るくてエロティックでとてもいい。
好きになるよね、わかる。羊さんも大牙を嫌いじゃなさそうだし、これは上手くいくかな……と思ったら、羊さんの「ある事情」が発覚する。5年ぶりの恋心と、その相手の結構ハードな諸事情を知った大牙の頭はぐちゃぐちゃ。なし崩しで告白までしちゃってさあどうしよう。すると羊さんは思わぬことを口にする。
お金が必要な羊さんに300万円を貸したら、羊さんを恋人として借りられる!? 利息が恋ってこと? ヤミ金もドン引きするようなご提案。でもそれに乗っちゃうわけです、大牙は。貯金あるし。
恋人って何するんだっけ?
300万円で賃貸契約を結んだ恋人はどんなことをするのか。ここで大牙の欲しいものを欲しがれない性質が大変よく効いてくる。「ドケチすぎてつまらない人だな」なんて思って本当にゴメンと思った。欲望のたがが外れるよりも100倍おもしろい事態になる。
5年ぶりの恋心と大金とで始まった羊さんとの関係を、大牙はとてもこわごわと扱うのだ。家に帰れば温かい食事を作って羊さんが待ってくれている。ショッピングに出かければオシャレした羊さんが指をからめてくる。そうやって恋人との日常が流れれば流れるほど、大牙(と私)の頭には賃貸契約がちらつく。恋人ってなんなんだっけ?と。
肉体的なつながりを持てば恋人なのだろうか。あるいは、こんなふうに羊さんが肌を見せたときに大牙が踏みとどまったら、それは「大牙は羊さんを恋人として大切にしている」のだろうか。
この恋の残高はどうやって増減するの? ラブストーリーに値段がつくとこうもややこしくなるのかと途方に暮れるが、見ごたえがある。
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(レビュアー:花森リド)
- カシコイ 1
- 著者:戸部じろ
- 発売日:2023年11月
- 発行所:講談社
- 価格:759円(税込)
- ISBNコード:9784065336830
※本記事は、講談社コミックプラスに2023年12月1日に掲載されたものです。
※この記事の内容は掲載当時のものです。