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恋愛目的じゃなくても、マッチングアプリをつかうのはアリ?『その町の一文字さんが笑うとき』

恋愛や血縁以外のつながり

言葉にしようとすると難しく、そもそも言葉で形を固定する必要がない、やわらかい水のような人間関係を『その町の一文字さんが笑うとき』はていねいに描いています。“一文字さん”に会いたくなっちゃう人、結構いるはずです。この人に会ったら、きっと自分の心も潤って自由になるんじゃないか。読めば読むほど、そういう気分になるんです。

“NJRくん”こと“虹朗(にじろう)”がマッチングアプリで出会った一文字(いちもんじ)という名前の女性は、虹朗がそれまでの人生で会ったことがないタイプの人。というか、虹朗の人生そのものが、この半年で大きく変わっていました。

都内の大手食品メーカーを退職して、海の見える町に移住した虹朗は、退職の本当の理由を誰にも言えません。周りの人も、そして何より虹朗本人にも「まさか」の出来事だったからです。

きっかけは突然の病気でした。でも病気そのものが理由で仕事を続けられなくなったのではなく……、

病気になった自分は職場で疎まれるんじゃないか、そう自分で自分を追い詰めてしまって、いたたまれなくなっての退職でした。

虹朗は自分の人生を「順調」と思って生きてきて、そうでなくなった今、かつての彼がうっすら抱えていた不寛容さや傲慢さが、しっぺ返しのように自分を傷つけている状態です。友達に本当のことを打ち明けたら「人生詰んだな、かわいそ」と思われるかも……(と、想像しちゃうんです)。ということで、ただでさえ病気でしんどいのに、さみしさと劣等感でボロボロ。虹朗の傲慢さがちょっとわかる私には、彼の独り相撲を「身から出たサビだね」なんて絶対に言えない。

本作はこういう「わかるなあ」と思わせる人物描写が巧みです。毎話、いろんな何かを抱える人が登場します。

ズンッと来ちゃうよね……。誰とも「深い関係」を結べないことが気になってしょうがない“岬(みさき)”もまた、自分の中にいろいろなものを抱えて生きています。

 

茶飲み友達

孤独と不安でどうにかなっちゃいそうな虹朗は、せめて「男」として必要とされる自分を手っ取り早く確かめたくて、マッチングアプリで「いいね」をくれた人と会ってみることに。そこに現れたのが一文字さんでした。

一文字さんは、すっぴん&クリクリ頭で、服のセンスも独特。カツカレーをモリモリ食べるし、語尾は「だぞ」だし、ニコっともしない。虹朗がカードバトルのように繰り出す質問にものらりくらり。彼にとっての必殺技「(昔の)勤め先のキラキラした社名」にも食いつく気配なし。

虹朗がどうにかして一文字さんを「攻略」しようとする滑稽さに笑っちゃうんですが、やがて衝撃の事実が判明します。

一文字さんが求めていたのは「恋のお相手」じゃなかった! なんてこった。相手のプロフィールをろくに読まず、とりあえずゲームのように会話をポンポン進めていた虹朗の傲慢さがここでもリアル。そして憎めない!

というのも、彼が抱えているものに、私は見覚えがあるからなんですよね。

「元気に長生きしたい」から茶飲み友達が欲しいと考えた一文字さんの明朗さに「そうだそうだ!」と笑える私と、とてもじゃないがそんな気分になれない虹朗のドンヨリ顔に言葉をなくす私、両方います。

一文字さんの言動すべてに心を乱される虹朗は、ずっと抱えていたあれこれを、思わず一文字さんにぶつけてしまいます。そんな虹朗に一文字さんは……?

恋人でも家族でも一夜限りの相手でもない、ひとりの人間として、とても温かい言葉と態度だと思いませんか。一文字さんはこの距離感が絶妙。相手を一人ぼっちにはしないし、かといってその人が抱えるものに土足で踏み込むことも、巻き込まれることもしません。

今回の虹朗の場合も、もしも虹朗が将来に明るさを見つけられないなら、それは虹朗本人が自分の力でどうにかしないと、彼は自由になれないはずです。周りの人にできることは、力を発揮するための手助けで、それこそが一文字さんの言う「遠慮なく私を呼べ」なのだと思います。

いい笑顔。性愛からも打算からも切り離された「人付き合い」の心地よさをゆっくり味わえるマンガです。ところで、私は一文字さんに「長い人生を豊かにする茶飲み友達」の大切さを教えた“ある人”のことが知りたい!

(レビュアー:花森リド)

その町の一文字さんが笑うとき 1
著者:立樹まや
発売日:2025年12月
発行所:講談社
価格:792円(税込)
ISBNコード:9784065417393

※本記事は、講談社|今日のおすすめ(コミック)に2026年1月19日に掲載されたものです。
※この記事の内容は掲載当時のものです。