恩田陸さんの最新作である、豪華客船を舞台にした長編『鈍色幻視行』と、その作中作である『夜果つるところ』が、5月、6月と2か月にわたり連続刊行され、話題となっています。幻の作家が鍵となり、虚構の中から“真実”を見せつける2つの物語には、強烈な魔力に包みこまれた世界観が広がっています。読む者を虜にして離さない、物語世界の裏側と作品の魅力について、恩田さんに伺いました。
恩田陸
おんだ・りく。1964年、宮城県生まれ。1992年に『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で吉川英治文学新人賞と本屋大賞、2006年『ユージニア』で日本推理作家協会賞、2007年『中庭の出来事』で山本周五郎賞、2017年『蜜蜂と遠雷』で直木賞と2度目の本屋大賞をそれぞれ受賞。近著に『スキマワラシ』『愚かな薔薇』『なんとかしなくちゃ。青雲編』など。
鈍色幻視行
著者:恩田陸
発売日:2023年5月
発行所:集英社
価格:2,420円(税込)
ISBN:9784087714302
撮影中の事故により三たび映像化が頓挫した“呪われた”小説『夜果つるところ』と、その著者・飯合梓の謎を追う小説家の蕗谷梢は、関係者が一堂に会するクルーズ旅行に夫・雅春とともに参加した。船上では、映画監督の角替、映画プロデューサーの進藤、編集者の島崎、漫画家ユニット・真鍋姉妹など、『夜~』にひとかたならぬ思いを持つ面々が、梢の取材に応えて語り出す。次々と現れる新事実と新解釈。旅の半ば、『夜~』を読み返した梢は、ある違和感を覚えて——
(集英社公式サイト『鈍色幻視行』より)
夜果つるところ
著者:恩田陸
発売日:2023年6月
発行所:集英社
価格:1,980円(税込)
ISBN:9784087714319
遊廓「墜月荘」で暮らす「私」には、三人の母がいる。日がな鳥籠を眺める産みの母・和江。身の回りのことを教えてくれる育ての母・莢子。無表情で帳場に立つ名義上の母・文子。ある時、「私」は館に出入りする男たちの宴会に迷い込む。着流しの笹野、背広を着た子爵、軍服の久我原。なぜか彼らに近しさを感じる「私」。だがそれは、夥しい血が流れる惨劇の始まりで……。
謎多き作家「飯合梓」によって執筆された、幻の一冊。
『鈍色幻視行』の登場人物たちの心を捉えて離さない、美しくも惨烈な幻想譚。(集英社公式サイト『夜果つるところ』より)
リーダビリティへのこだわり
――『鈍色幻視行』は、連載を始めてから15年を経ての刊行となりましたね。
これほど長くなるとは、まったくの想定外でした。書いているときは、もっと早く終わらせようと思っていたのですが(笑)。
――2か月連続の刊行としても話題となっています。
最初は2冊同時発売の予定でしたが、(出版元である)集英社の営業の方から、先に『鈍色幻視行』を出した方がいいというアイディアをもらいました。そうすると、『鈍色幻視行』を『夜果つるところ』の内容を想像しながら読んでいただけますし、読者の方それぞれが考えたテキストもあると思います。結果的に、その試みは成功したのではないでしょうか。
――『鈍色幻視行』は5月の発売ですが、読者からの反響は聞こえてきますか。
一気読みしてくださった、という声が多くて嬉しいですね。私はエンタメ作家なので、リーダビリティのある、時間を忘れて読めるような作品を書きたいと、いつも思っています。
作中作『夜果つるところ』を利用した絶妙な構成
――『夜果つるところ』は、作中作というアイディアが効果的ですね。こちらは軍や遊郭など、激動の時代を思わせる背景で物語が展開していきます。
これまでもメタフィクション的な作品を書いてきて、作中作の一部のようなものも書きましたが、いつかまるごと書いてみたいと思っていました。2冊別の作品にしようとしたのは、今回が初めてです。
――その『夜果つるところ』をキーに展開される、『鈍色幻視行』の構成も絶妙です。
最初はストレートなミステリーとして進行していましたが、連載が長期になるにしたがって、だんだん後半は創作論的な内容が濃くなっていきました。これは自分でも予想していない展開でしたね。書きながら物語が変化を遂げていきました。
――『夜果つるところ』は、映像化が何度か頓挫していることから、『鈍色幻視行』の中で呪われた作品と言われています。『鈍色幻視行』はその“謎”を解くために、関係者が船上に集まるところから物語が始まります。彼らはみなクリエイターですね。
本作の後半が創作論的になっていったのは、私がモノを創る人たちに興味があったからです。他の人はどうやって創っているのかに、とても興味があります。創作にはいろいろなやり方があって、優れた批評もそうですし、モノを教えるのが上手い人、才能を見つけるのが巧い人も創作活動をしていると言えます。クリエイティビティの発露の仕方は多様で、それを書いておきたいという気持ちがどこかにあったのだと思います。
――「小説を書いていることも呪いだ」とも書かれています。
本当にそうだと思います。ある意味、憑りつかれていますね。
――それにしても、両作ともに謎が多すぎます(笑)。
風呂敷を広げすぎましたので、たたむのが大変でした(笑)。ワクワクするような謎が出てこないと、自分でも書いていて楽しくありません。今回は不穏な雰囲気を楽しみながら書けました。
登場人物それぞれに自分を投影させている
――『鈍色幻視行』という、まさにそのもの“ズバリ”というタイトルがいいと思いました。連載スタート時からこのタイトルがあったのですか。
私はタイトルが決まらないと、作品が書けないんです。まず『鈍色幻視行』を連載として書き始めました。途中で作中作である『夜果つるところ』の冒頭シーンが出てくるのですが、そこで、これは作中作の方を先に書き上げた方がいいだろうと思い、『鈍色幻視行』の連載を中断して書き上げました。
『夜果つるところ』は、『鈍色幻視行』に登場する謎の作家・飯合梓になりきって書きましたので、私だったらこのタイトルはつけないだろうなと思います。
――緻密な物語構成ですが、プロットは書かないのだとか。
書きながらストーリー展開を考えています。そうでないと、書いていてワクワクできないので。ですから決めないで書いていることが多いですね。
――登場人物たちが思い思いにドラマを起こしていくのですね。
そうですね。彼らが会話してくれると物語が動き出します。
――キャラクターがそれぞれ魅力的ですが、モデルはいるのでしょうか。
特にモデルはいません。自分の一部分が少しずつ入っていて、そこを膨らませることで、その登場人物になっていきます。
――『夜果つるところ』の惨劇のシーンも忘れられませんが、おぞましい登場人物の内面にも恩田さんがいるのでしょうか……。
血みどろになったダークサイドの私がいるかもしれません(笑)。ただ『夜果つるところ』は先ほどもお話ししたように、タイトル同様内容も、恩田陸ではなく飯合梓の作品です。作中作だからこそ生まれたものといえますね。
――ここ最近では社会問題ともなっていますが、ジェンダーに関する部分もまた読みどころのひとつですね。
長期連載だったこともあり、今回は、その点に関して校正の方から私が意識していなかった部分にも指摘が入りました。改めて“刷りこみ”は本当に大きかったのだと気づかされました。
舞台が船旅であることの意味
――『鈍色幻視行』は舞台が豪華客船であることもポイントですね。
これはもう、アガサ・クリスティーの世界ですね(笑)。
私自身、いちど船旅をしてみたかったですし、物語の舞台にもしてみたかったのです。
――船旅はいかがでしたか。
時間の流れがまったく違いますね。取材として、ちょうど小説と同じ行程で2週間の船旅をしました。11月末からという暮れの忙しい最中でしたので、出かける前の2日間くらいは徹夜して、ほとんど駆け込み状態でした。
――主要人物の一人である蕗谷梢も、まさにそのような状態で旅を始めていましたね(笑)。
その分、船に乗ってからはすごくゆったりとした贅沢な時間を味わえました。非日常感があってよかったです。
旅=人生=物語である
――『鈍色幻視行』からは船旅の波や人間関係も含めた「揺らぎ」が感じられました。また、物語の中の旅についてのフレーズも印象に残っています。「旅とはすこし死ぬことである」というフランスのことわざが引用されていましたが、とても心に刺さりました。
これは私も本で読んだ一節で、すごく印象に残っていました。
――もうひとつ、「旅というのも長い芝居のようなものだ」も力のあるフレーズですね。
旅の途中はどこか人格が変わったようなところもありますし、ずっと外に出ていると“演技”が必要な場合もありますよね。そういう側面があるなといつも思っています。
――「真実があるのは、虚構の中だけだ」も本作を象徴するような一文です。
人が映画や小説を楽しむのは、まさに作り物の中に真実があるからなのだということは、私も実感しているところです。実体験ではわからないけれども、物語の中に真実に触れられる瞬間がある。だからフィクションは人間にとって必要なのでしょう。
――『鈍色幻視行』の最初の一行である、「ベトナムで見た蠅のことを考えている」、このつかみのシーンは最高ですね。無限に広がる大海原を行く話の導入が小さな蠅とは、本当に驚きです。
船旅の取材では、たくさん写真を撮りました。そうすると、風景だけでなく、その時自分が何を考えていたのかまで思い出せます。このシーンも、実際に見て、自分のなかでも印象に残っていたため、冒頭に入れています。
――黒い蠅のあとにはピアノの音色が聞こえてくるなど、五感に訴える描写も散りばめられています。
やはり、読む方の目に浮かぶような、体感できるようなシーンを描きたいと思っています。
人生とは、曖昧さに耐えることである
――この作品に込めたテーマをお聞かせください。
「人生とは、曖昧さに耐えることである」と思っています。『鈍色幻視行』というタイトルからして曖昧さ重視なのですが、これは私の人生のテーマでもあります。あらゆる物事は白黒はっきりつかないものです。白黒つけた方が楽なんですけどね。
――『鈍色幻視行』の堂々たる表紙にも惹かれますが、『夜果つるところ』のカバーもまた凝っています。
リバーシブルになっていて、裏面も物語のイメージに寄り添った工夫をしていただいています。ぜひ手に取ってご覧ください。紙の本ならではの醍醐味が感じられると思います。
――これまでにも印象的な装丁の作品をたくさん出版されていますが、恩田さんの作品は、クリエイターたちの魂に火をつける力があるのでしょうね。
私も装丁の相談をしている時がいちばん楽しいです。本は、ジャケットを含めての作品だと思っています。
――「恩田陸」がひとつのジャンルであるかのように、さまざまなジャンルや作風でお書きになっています。それぞれ読者を意識しながら書かれるのですか。
特に具体的な読者を想定しているということではなく、私が好きなものを、同じように好きな人がどこかにいるだろうというスタンスです。きっと私以外にも楽しんでくれる人がいるに違いないと思って、自分が読みたいと思うものを書いています。
――今後の作品についての構想などをお聞かせください。
私が飽きっぽいというのもありますが、同じテーマでばかり書いていると縮小再生産になりますので、芸域を広げながら書いていきたいです。これからの夢として、大河小説のような数百年単位の長いスパンの話を書いてみたいと思っています。物語の関連年表を本に載せるのが夢なので。
――今回の2作は、恩田さんが15年の歳月をかけた、集大成ともいえる作品だと思います。最後に、読者へのメッセージをお願いします。
人生や旅も同じですが、読書も過程を楽しむことが大切だという思いがあります。読んでいる“過程”が楽しいミステリーを書きたいという目標がありましたが、本作ではそれが達成できたのではないかと感じています。ホラー、ミステリーなど、これまで書いてきたさまざまなジャンルを融合させた物語になっていますので、ぜひ2冊あわせて読んでいただけると嬉しいです。
〈取材を終えて〉
2作品ともに、全身を持っていかれるような感覚で言葉を失った。この物語の良さを体感してもらうには、読んでもらうしかないだろう。短い物語が好まれ、読む前から結論を知りたい読者が増えている昨今の読書事情からは真逆の世界かもしれない。しかし本当の小説の奥深さ、面白さは恩田文学のような一言では効能を言い表せない物語の中にある。深まる謎に膨らむ疑惑。曖昧な現実に確かな幻想。危うい人間模様を照らす鮮やかな闇。読み進めるうちに誰もが揺らめくのは船だけでなく、己自身の存在であることに気づかされるに違いない。
『鈍色幻視行』と『夜果つるところ』は30年にわたって文芸界をリードしてきた恩田陸の新たな代表作であり、長く読み継がれるべき名作である。贅沢な読書体験を存分に味わっていただきたい。
▼元書店員であり、「POP王」としても知られる本記事の執筆者であるブックジャーナリスト・内田剛の書いた2作品のPOPがこちら