「甘味」は、「塩味」「酸味」「苦味」「うまみ」とともに、味の5種類のひとつに挙げられているが、なんでも脳内の心地よさを感じる部分を刺激して、「β─エンドルフィン」というホルモンを分泌させるそうだ。「β─エンドルフィン」はストレスをやわらげ、心身をリラックスさせ、快感をもたらす作用があるホルモンとのことだ。なるほど、いったん食べ出すとなかなか止められないわけだ。本書にはそんなホルモンの分泌を促すミステリーが5作収録されている。
和菓子と日常の謎との組み合わせで、〈甘味〉ミステリーに新しい世界を切り開いたのは、坂木司「和菓子のアン」(光文社文庫『和菓子のアン』収録)だ。
主人公の梅本杏子は何の特技もないけれど食べることは大好きである。そして高校を卒業し、デパ地下の和菓子屋でアルバイトとして働きはじめ、そのお店、『和菓子舗・みつ屋』で彼女は和菓子の奥深い世界を知るのだった。そして謎解きの世界にも足を踏み入れていく。
この短編にはじまる杏子のシリーズは、『アンと青春』、『アンと愛情』、『アンと幸福』と書き継がれている。いずれも短編連作で、和菓子の蘊蓄をちょっと自慢したい向きには格好のシリーズだろう。
坂木作品には、ショートケーキをテーマにした連作『ショートケーキ。』、あるいは高校の「おやつ部」のメンバーを主人公にした『うまいダッツ』といった〈甘味〉ミステリーもある。そのほか作品のそこかしこでも、食にまつわる話題が楽しめる。
和菓子といえば上田早夕里『ショコラティエの勲章』が老舗の和菓子店〈福桜堂〉の神戸支店で売り子をしている絢部あかりが主人公の連作だが、不思議な万引き事件がきっかけで、二軒隣りの行列が絶えないショコラトリー〈ショコラ・ド・ルイ〉のシェフの長峰と親しくなる。和菓子と洋菓子のコラボが楽しめるだろう。上田作品では『ラ・パティスリー』にもやはり神戸のフランス菓子店が登場する。大平しおり『リリーベリー イチゴショートのない洋菓子店』や秋目人『ショコラの王子様』も洋菓子店をめぐるちょっとミステリアスな物語だ。
フランスのストラスブールで日本で修業したフランス人女性が、和菓子店を開いているそうだ。「Wagashi」が英語圏の辞書に載る日も来るだろう(もう載っている?)。ただ総務省の家計調査によると、日本国内では、洋菓子の家計支出は右肩上がりなのに、和菓子のほうはあまり芳しくない。低脂質でヘルシーなのだが……。
スイーツ男子という呼称が広まったのは2010年代初頭らしい。コンビニで気軽に買えるようになったのも影響しているようだ。ただ、手作りする域まで達するスイーツ男子はどれくらいいるだろうか。そのハードルはなかなか高いように思う。
友井羊「チョコレートが出てこない」(集英社文庫『スイーツレシピで謎解きを 推理が言えない少女と保健室の眠り姫』収録)の天野真雪は、高校生にして手作り派のスイーツ男子だ。その知識とこだわりには圧倒される連作の第一話である。その真雪に密かに好意を寄せているのが沢村菓奈だ。彼が作ったチョコレートが家庭科準備室から消えた謎を解く第一話に続いて、スイーツにまつわる事件が語られていく。
カトルカール、シュークリーム、フルーツゼリー、バースデイケーキ、クッキー、コンヴェルサシオン、マカロンと、スイーツが各編のタイトルに並ぶ。スイーツを作る場面がたっぷりあって至福の一時を楽しめる。そのスイーツにまつわる謎解きも、やはり至福の一時である。
友井作品では女子高生の凸凹コンビを主人公にした『放課後レシピで謎解きを うつむきがちな探偵と駆け抜ける少女の秘密』にも甘いものが取り上げられている。『スイーツレシピで謎解きを 推理が言えない少女と保健室の眠り姫』同様、青春ミステリーの魅力に満ちている連作だ。
高校を舞台にした青春ミステリーと日常の謎、そしてスイーツとのコラボといえば、米澤穂信作品のいわゆる〈小市民〉シリーズだ。『春期限定いちごタルト事件』を最初に、『夏期限定トロピカルパフェ事件』、『秋期限定栗きんとん事件』、『巴里マカロンの謎』、『冬期限定ボンボンショコラ事件』と書き継がれている。
チョコレートの誤植ではない。畠中恵「チヨコレイト甘し」(講談社文庫『アイスクリン強し』収録)は明治半ばの物語だから、表記はちょっと古風である。築地居留地にほど近い西洋菓子屋「風琴屋」の店主である皆川真次郎が、さまざまな事件に巻き込まれていく連作の第一話だ。
真次郎は孤児だった自分を育ててくれた宣教師夫妻の、結婚記念日パーティーの準備に大わらわだ。それは彼の腕前が試される場で、今は予約販売しかしていない「風琴屋」の将来が懸かっている。ところが色々とトラブルが!まだ食材の揃わない時代に、なんとか西洋料理や西洋菓子を作ろうと奮闘している真次郎である。
続いて、シユウクリーム、アイスクリン、ゼリケーキ、ワッフルスがタイトルに織り込まれていくが、そのほかにも多彩な西洋菓子が登場して、舌と脳を刺激する。また、全体を貫く謎解きも仕掛けられている連作だ。
西洋菓子は江戸時代、海外との交易の場であった長崎からもたらされたものが多いが、チョコレートもオランダ人が持ち込んだという。明治時代になって日本人による製造・販売が始まったが、かなり高価だったらしい。
畠中作品では、江戸時代を舞台にした〈しゃばけ〉シリーズに和菓子屋の跡取り息子が登場している。
西條奈加『まるまるの毬』も江戸時代、菓子を商う「南星屋」の美味しそうな品々にそそられる。職人の治兵衛は十六年間諸国を巡って菓子帳を書き溜めていったというのだから、地方色豊かだ。その菓子に秘密が仕込まれていく。
アフタヌーンティーが日本に定着したのはいつ頃なのだろうか。最初はそのボリュームに驚いたものだが、もともと朝食と夕食の2食しかない時代に、その間の空腹を満たすものだったらしいから、ゆうに1食分あっても不思議ではない。
一方、柚木麻子「3時のアッコちゃん」(双葉文庫『3時のアッコちゃん』収録)のアフタヌーンティーはちょっと控えめである。
高潮物産の契約社員である澤田三智子は、フランスで人気のシャンパンの販促イベントの会議の雑用で大忙しである。しかもこれといった企画が出てこない。半年ぶりに再会したかつての上司である、アッコさんこと黒川敦子に愚痴をこぼしたところ、会議に出すアフタヌーンティーを用意すると言い出した。毎日3時に──。
初日の月曜、美味しい紅茶とまだほんのり温かいショートブレッドは好評だったが、まだ意見がまとまる雰囲気ではない。しかし、ビクトリアケーキやスコーン、あるいはクリスマスプディングなど、毎日饗されるお菓子が脳細胞を活性化させる。そして最後に明らかになるのは、アッコさんのアフタヌーンティーに隠された秘密だ。
アッコちゃんシリーズは『ランチのアッコちゃん』が第一作で、『3時のアッコちゃん』は2冊目である。そしてもう一作、『幹事のアッコちゃん』があるが、そこかしこに〈食〉がちりばめられている。
長野の甘いものにこだわったストーリーが展開されているのは、若竹七海「不審なプリン事件」(中公文庫『御子柴くんの甘味と捜査』収録)だ。御子柴将は長野県警の警察官だが、今は警視庁の捜査共助課に出向の身だ。長野県警と連絡を取り合って犯罪捜査を行うのだが、勝手に彼に「長野」というニックネームをつけたのが捜査一課の玉森主任である。
なにせこの主任、72時間の張り込み中に38個のあんぱんを食べたとか、24時間の張り込み中に今川焼を18個食べたとかいう伝説があるほど、甘いものには目がない。御子柴が買ってきたものを、すごい勢いで食べてしまうのである。
長野県警側のおねだりもかなりのものだ。なにかというと御子柴には東京土産のリクエストがある。それも甘いものが多い。ただし、彼はスイーツ刑事と呼ばれるほどだから、けっこう楽しんでいる。
上田市の〈雷電くるみ餅〉、そして長野市の〈酒饅頭〉に続いてここに収録した第三話では〈軽井沢プリン〉である。指名手配犯が軽井沢で行われる娘の結婚式に現れるのではないか。玉森と御子柴は張り込みにかり出された。その際、玉森は軽井沢プリンを10個以上平らげ……さすがに胸焼けがしそうだ。
さらに、駒ヶ根市の〈信州味噌ピッツァ〉と松本市の〈あめせんべい〉が取り上げられている。もちろんミステリーの醍醐味もたっぷりだ。長野県警の小林警部補と連絡を取りながら謎を解いていく御子柴である。続編に『御子柴くんと遠距離バディ』があるが、こちらはちょっと甘さを控えて、ハードなストーリーが展開されている。
近藤史恵『タルト・タタンの夢』での食後のデザートなど、「甘味」ミステリーはたくさんある。
さて、「β─エンドルフィン」はたくさん分泌されましたか?
- ミステリなスイーツ 甘い謎解きアンソロジー
- 著者:坂木司 友井羊 畠中恵 柚木麻子 若竹七海
- 発売日:2024年06月
- 発行所:双葉社
- 価格:814円(税込)
- ISBNコード:9784575659092
双葉社文芸総合サイト「COLORFUL」2024年6月29日(土)公開「ブックレビュー」より転載