昨年35周年を迎えたヘヴィ・メタル/ハード・ロック専門誌「BURRN!」。26年という長きにわたって編集長を務める広瀬和生さんは、どのように同誌を運営してきたのでしょうか。その変遷と仕事の醍醐味について、広瀬編集長に綴っていただきました。
- BURRN! (バーン) 2020年 03月号
- 著者:
- 発売日:2020年02月05日
- 発行所:シンコーミュージック・エンタテイメント
- 価格:820円(税込)
- JANコード:4910175010307
「攻める表紙」で編集長としての個性を
ヘヴィ・メタル/ハード・ロック専門誌「BURRN!」は2019年10月号で35周年を迎えた。その35年のうち、僕は最初の3年間を読者として、残りの32年間を編集部員として過ごしている。さらに言うと、その32年のうち編集長が26年間である。
まさかそんなに長くやるとは思わなかった、というのが正直なところだが、誰も後を引き受けてくれようとしないので仕方ない。先日も、昔編集部に在籍して今はフリーの優秀な人材に「僕の次の編集長やらない?」と言ってみたが、「いやいや、まさか、ご冗談を(笑)」と笑顔で断わられてしまった。
映画やドラマなどを観ていると、編集長というのはとても偉くて色々な権限を一手に握っていて、何でも独断で決められて、細かい雑務なんかは部下に任せて……というイメージがある。
確かにそういう編集長もいるのかもしれないが、小さな音楽出版社の数人で構成される編集部では、いや、少なくとも「BURRN!」ではそうではない。
僕の立場を一言で表現すれば「面倒なことを一手に引き受ける係」であり、雑務も部下以上にたくさんこなしながら、会社からは営業成績の責任を負わされ、外部からの批判の矢面に立たされる立場に過ぎない。
まして6年前までは「創刊編集長が社長」という会社にいて、その社長がまた積極的に「細かいことまで口を出す」タイプだったので、独裁の権限なんて夢のまた夢だった。
だがありがたいことに6年前、「BURRN!」編集部は親会社のシンコーミュージックに戻ることができて、雑誌編集に関しての権限は僕が握ることになった。
とはいってももちろん僕が何でも勝手に決めるのではなく、みんなと相談しながら「最終的な判断をくだすのは編集長」ということ。細かいことは編集部員の裁量に任せている。
毎月発行されるそれぞれの号に関して編集長が決める最も大きな事柄は、「表紙・巻頭特集」である。僕が自由裁量で決めてもクレームが入らなくなった6年前からは、かなり「攻めの表紙」を作ることができるようになった。
2016年1月号で高崎晃を「日本人初の表紙」にしたのもそのひとつ。2019年の例で言うとアンセム、B'zあたりは「攻めた」感がある。
表紙のアーティストはだいたい僕が対外的な交渉を進める中で決めていくが、候補が幾つもあって迷う場合や、逆に候補がまったくない場合などは編集会議で決める。
2019年の表紙で一番「面白い結果になった」のが2020年1月号(12月5日発売)におけるモトリー・クルー。ちょうど彼らが「2020年に再結成してツアーを行なう」と発表した直後の表紙となったのだが、実は、あれは偶然の結果だった。
2019年はモトリー・クルーが1989年に発表して全米アルバム・チャート1位となった名作「ドクター・フィールグッド」の30周年。
彼らはいつ表紙にしても「売れる」アーティストなので、ダメもとで彼らのマネージメントにあの作品についての取材をオファーした。すると意外や快諾してくれて、ニッキー・シックスとミック・マーズの電話インタビューに成功したのはまだ夏の時期だった。
だがこの年の表紙は9月号から12月号まで全部決まっていて、どうしても時期を動かすことができなかった。なので2019年が終わるギリギリの1月号で、彼らを表紙にすることを決めたのである。
そして表紙も入稿した後の11月19日(現地時間は18日)、何と「モトリー・クルー復活!」というニュースが飛び込んできた。そこで僕は色校で表紙の叩き文句を「MOTLEY CRUE is BACK!!」に差し替えたのである。
発表があと数日遅れていたら、それは不可能だった。ありがとう、モトリー・クルー!
シンコーミュージック・エンタテイメント「BURRN!」編集長
広瀬和生 HIROSE Kazuo
1960年、埼玉県生まれ。東京大学工学部卒業後、ビクター音楽産業(当時)に勤務の後、1987年「BURRN!」編集部に転職。
(「日販通信」2020年2月号「編集長雑記」より転載)