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平成7年(1995年)3月30日朝、東京都荒川区で起こった國松孝次警察庁長官狙撃事件。全国警察のトップが自宅マンション前で発砲され、瀕死の重傷を負うという前代未聞の事件は、社会に大きな衝撃を与えました。
10日前に地下鉄サリン事件が発生したこともあり、警察はオウム真理教による犯行の可能性が高いと見て捜査を進めていました。そんな中、中村泰という1人のテロリストが捜査線上に浮上します。
当時、中村の捜査を担当した捜査第一課元刑事の原雄一氏が、オウム犯行説にとらわれた当時の警察の様子を明かします。
――捜査は本来、積み重ねた事実を検証しながら進めていくべきであり、思い込みで進めてはなりません。公安部はオウム犯行説を押し通していた一方で、中村に対する捜査については一貫して否定的でしたが、捜査は継続するように指示されました。
平成20年(2008年)、当時の警視総監から中村の捜査再開を指示されたとき、私は、捜査第一課と公安第一課の捜査員をそれぞれ5名ほど集めた混成チームをつくりたい、と要望しました。
異なる視点で事件に向き合っていた者同士でタッグを組むことで、お互いに視野狭窄に陥らないようにしたかったからです。
その上で私を班長とした「中村捜査班」が結成され、証拠品の分析や共犯者の割出し等を進めていきました。刑事部と公安部が垣根を超えて同じ捜査に携わることは、警察組織においてきわめて異例なことでした。
――しかし、最終的に中村の立件には至らず、平成22年(2010年)3月30日に警察庁長官狙撃事件の公訴時効が成立します。あらためて当時の心境を教えてください。
もちろん、立件できなかったことは無念でした。同時に「これで解放される」という安堵感も抱きました。これが正直な思いです。
ただ、公安部長が記者会見で、中村の捜査についてはいっさい触れず、「警察庁長官狙撃事件はオウム真理教信者グループにより敢行された計画的・組織的なテロ」と発表されたことには、驚きを禁じえませんでした。
捜査員の多くは歯軋りをして悔しがっていましたよ。いくら事実を積み上げても、事件の解決には至らない矛盾に納得できないでいました。
私は、検挙に至ることができなかった自分の無力さを、懸命に捜査をしてきた仲間たちに詫びました。みんな俯いて、黙って私の話を聞いていました。その光景は、いまでも鮮明に覚えています。
――なぜ公安部はそこまでオウムに拘泥してしまったのでしょうか。
正確なことはよくわかりません。ただ公安部の幹部や捜査員たちは、オウム真理教の犯行というレールから外れてはならない「宿命」を背負っていたのではないかと感じています。
公訴時効が近づいていたころ、私は当時の警視総監に「なぜ、狙撃事件の犯人が捕まらないかわかるかね」と問われました。答えあぐねている私を見て、総監は「公安部が捜査しているからだよ」と言われました。
狙撃事件発生以来、歴代の幹部の多くがオウムの犯行と見て捜査を続けてきたのだから、その道からは逸脱できない、という暗黙の了解が存在していたのでしょうか。
――思い込みにとらわれて現実を見失うことは、警察組織だけでなく、民間企業等の組織においても見られる失敗のように思います。
だからこそ私は、あのとき警察内部で何が起きていたのか、という記録を残すために本書を書いたのです。オウムに対する捜査が進んでいた一方で、中村泰というテロリストが存在していました。
そして彼を追い続けた捜査員がいたことを歴史の闇に埋もれさせたくはなかったのです。中村を追っていたわれわれを含め、組織の一人ひとりに「宿命」があったような気がしています。
※本記事は、PHP研究所発行の雑誌「Voice」2018年12月号(11月10日(土)発売)に掲載されたインタビュー「著者に聞く 原雄一氏の『宿命』」を一部抜粋したものです。全文は同誌12月号をご覧ください。
(写真:西﨑進也)
原雄一(警視庁捜査第一課元刑事)
1956年生まれ、東京都出身。中央大学法学部卒業後、民間企業勤務を経て、1980年、警視庁警察官拝命。機動捜査隊主任・班長、捜査第一課主任・係長・管理官・理事官を歴任し、その間、殺人事件をはじめ数々の凶悪事件、重要未解決事件の捜査に従事。築地署副署長、滝野川署長、第九方面本部副本部長を務め、2016年勇退。