'); }else{ document.write(''); } //-->
幼い頃から飛行機に憧れ、1942年に三重海軍航空隊に予科練習生として入隊。それから2年半後、1945年3月21日に、九州東南沖へ出撃して19歳で戦死……。
若く、夢と才能にあふれた漫画好きの少年が遺した家族への手紙・スケッチが一冊にまとめられ、『まんが少年、空を飛ぶ 特攻隊員・山崎祐則からの絵手紙』というタイトルで偕成社から刊行されることになりました。
著者の山崎祐則さんは、1925年高知県生まれ。村で唯一の医院を開いていた山崎家の四男で、夜須村(現在の香南市夜須町)で子ども時代を過ごしました。
小さな頃から漫画を描くのが得意だったといい、進級した旧制中学では同好会を結成。空を飛ぶことを夢見ていたこともあり、「青空高士(あおぞらたかし)」のペンネームで漫画を描いていました。
▼山崎祐則さん
その後1942年に中学を中退し、山崎さんは航空隊に入隊。飛行機乗りになることを夢見ながら仲間たちと訓練に明け暮れ、そんな日々のあれこれを、漫画を添えた絵手紙で家族に報告していました。
入隊まもない頃に祖母へあてて送った手紙には、ハンモックでの寝起きや朝の掃除の大変さなどを伝え、「手紙と食事がいちばん楽しい」と書いています。
また、軍隊での生活の様子をポストカードのように描いた作品も。
総員起こしの号令や洗濯、売店での様子、闘争心を養うとされ分隊対抗で行なわれた「棒倒し」などが描かれています。
練習教程を卒業したあと、山崎さんは1944年に、愛知県の豊橋海軍航空基地へ実施部隊(実戦部隊)として配属。最新鋭の飛行機で空を駆けめぐる日々は、待ち望んだことであると同時に、戦場への“出撃”を待つことでもありました。
そして1945年、ついに出撃命令が下ります。山崎さんは半日だけの休暇をもらって、故郷の高知へ飛行機で飛び、上空から我が家を眺めました。そのときのことも、5枚にわたる手紙のなかに綴られています。
・・・・・・ご両親さま、2月14日の午後12時15分にはいかがしておりましたか。このときが、わたしのじつに嬉しかったときでした。(中略)直下に手結港が見えました。12時15分です。どうです。ご両親さま、私が穴のあくほど家を見つめていたのを、虫の知らせでもご存じですか。今ごろ、義ちゃんはどうしているかなあなどと、私の気持ちは、感激は、しばらくの間けっして消えることはできませんでした。(中略)明日から出水町を去ります。生きて会えるかどうかわかりません。母上のご面会もできなくなりました。しかし私は一昨日、家の上空二千メートル(半里)の近くまで、私は帰りましたよ。
そして約1か月後に、山崎さんは出撃して死去。
友人を介して家族のもとへ届いた山崎さんの預金通帳には、「私は特攻隊で行きます 皆さま御機嫌宜しくお暮らしください 父上様 母上様 御元気で サヨウナラ 祐則」と走り書きされており、これが遺書となりました。
戦時中に軍隊でこのような作品が描かれていたということを知る貴重な資料であり、一人の若者の人生を伝える記録としても重要な一冊。なお刊行にあたり、『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』でも知られる稲泉連さんが、本書に解説を寄せています。
※『まんが少年、空を飛ぶ』は小学校高学年から読めます。