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  • オウム真理教描いた「A」の森達也が「相模原事件」を通して人間と社会の“憂鬱な”本質に迫る

    2021年02月23日
    知る・学ぶ
    草野真一:講談社BOOK倶楽部
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    著者:森達也
    発売日:2020年12月
    発行所:講談社
    価格:1,100円(税込)
    ISBNコード:9784065208243

     

    今だからこそのドキュメンタリー

    本書は、神奈川県相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起こった大量殺人事件の加害者として死刑が確定した植松聖への接見、手紙のやりとり、ジャーナリストや精神科医などとの対話によって著者が考えたこと知り得たことをまとめた書物です。

    著者はかつてオウム真理教信者の日常を描いたドキュメンタリー映画『A』『A2』を撮影し、世界中から高い評価を受けた森達也氏。氏はその続編『A3』のほか、『いのちの食べかた』『ドキュメンタリーは嘘をつく』『死刑』『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』など、幾多の著書も出版されています。その視点と書きっぷりはうならされることが多く、尊敬せずにはいられない人でした。

    とはいえ、この本のリリースを知っても、すぐに飛びつく気にはなれませんでした。
    いくつかの個人的事情のために、本書は、自分を「憂鬱な」気持ちにさせるものだったからです。

    自分は、身体障害者です。
    「この箱を隣の部屋に持ってってくれ」というオーダーがあれば、たいがいの人は難なくこなすことができるでしょう。しかし、自分にはできません。また、話すこと文字を書くことが得意ではないため、他人と円滑なコミュニケーションをとることができません。自動車はもちろん自転車も運転できず、悪路も歩けません。ほかにも、人には簡単にできるのに自分にはできないことが、たくさんあります。

    そういう人間の自己評価が高いはずはなく、自分を役に立たない人間だと認識することもしばしばあります。最近、若い友人を亡くしましたが、なぜ自分ではないのかと本気で思いました。

    相模原障害者殺傷事件には、大きな興味を抱きつづけてきました。
    わけても、加害者・植松聖の主張「重度の障害者は安楽死させるべきである」には、同意したいような気持ちを感じていました。
    植松は逮捕されても死刑が確定しても、この主張は曲げていません。これが事件の核心のひとつであることは疑いようがないでしょう。

    植松の主張を否定する意見もずいぶん見ましたが、正直、納得できるものは得られませんでした。
    多くの人は、植松の思想は優生思想(人には優れたものとそうでないものがあり、障害者は劣ったものである)と断じ、これを否定しようとします。だけどねえ、そんなの信用する気にならないよ。

    あんた牛豚鶏の肉うめえうめえって喰ってるでしょ。あれ、うまい肉つくるために精子が冷凍保存されてんだよ。競争馬は淵源をたどると三頭から枝分かれしてる。はやい馬をつくるためにしてるんだ。これ、ぜんぶ優生思想だから。優生思想は科学的裏づけのない時代から実行されている。そういうのって正しいことが多いんだ。

    巧言令色には仁がないと語ったのは孔子ですが、彼らが語っていたことはほとんど巧言令色でした。優生思想にもとづく慣習を享受しながら、優生思想を否定する態度は不誠実きわまりないと思いました。

    尊敬する森達也さんにその仲間になってほしくねえなあ。
    それが本書のリリースに際しての第一印象でした。

    なお、誤解を避けるため言っておくと、自分は障害者=劣等種とは考えていません。そう思わせてくれたのはスティーヴィー・ワンダーとホーキング博士です。

     

    憂鬱をつくっているのは、私たちだ

    前置きが長くなりました。
    結論から言うと、この本は森達也さんしか書けなかった本であり、植松の死刑が確定した今だからこそリリースされるべき本であります。類書のない、たいへん優れた本です。私の「憂鬱な」心配も、完全に払拭されました。

    本書を読んで、どうしても否定することができないでいた植松聖の思想に、はじめて疑問がわきました。

    自分をふくめ、植松聖と似たような考えを持つ人は少なからずいるでしょう。しかし、実行はしません。残虐な行為をしたのは植松だけだったのです。
    なんでだろ?

    本書のテーマのひとつはここにあります。なんでだろ?

    それを解明するための重要な手がかりを、私たちは失ってしまいました。植松の死刑が確定したからです。
    長くなりますが引用しましょう。

    人は人を殺す。怨恨で。金銭や財産目当てに。あるいは痴情で。でもここに挙げた事件(引用者注:オウム事件、秋葉原殺傷事件、池田小事件など)に共通することは、これらの枠組みに収まらないと同時に、裁判中は被告人の犯行時の精神状態が大きな焦点となるけれど、最終的には責任能力が認定されるというプロセスだ。他の多くの事件の裁判でも、これはほぼ共通している。
    (略)これほどに例外なく責任能力が認められるのなら、そもそも責任能力とは何か、と考えたくなる。正常な精神状態とは何か。異常な精神状態とは何か。この国の刑事司法は今のこの方向でよいのか。罪と罰についての解釈と決定を僕たちは間違えていないのか。精神鑑定の意味を考え直すべきではないのか。

    植松聖の死刑は、ほとんど検証されることなく確定しました。あきらかに先に結論として死刑があって、そこに向かって裁判がなされたのです。
    植松聖のような犯罪者は、社会の害悪である。抹殺すべきだ。処刑すべきだ。そんな世論に司法はしたがいました。そのため、私たちは「なんでだろ?」を研究する手立てを失ってしまったのです。植松聖が出た理由がわからないのだから、第二の植松聖が出てくる抑止策も講じられません。

    本書は、事件を追いかけることや、植松聖の人となりを論じることを主眼に書かれたものではありません。
    植松聖をさっさと死刑にしたい、なかったことにしたい。そう考える気持ちが、この社会には満ちている。それを描くために書かれたのです。なかったこと、見なかったことにすることは事件の要因を研究することを阻害するばかりか、事件の再発防止に向けたこころみも圧殺します。

    ここで批判されているのは、植松ではありません。この社会であり、その一員である私たちです。
    いずれ、第二の植松聖が出てくることでしょう。彼は罪を犯し、たいして調べられもせず無残に処刑されることでしょう。そう予想することは、とても「憂鬱な」ことです。

    メディアは社会(市場)によって規定される。つまり社会の合わせ鏡だ。ネットではマスゴミとメディアを罵倒する人が多いが、もしもメディアがゴミならば、それは僕やあなたが帰属するこの社会もゴミのレベルであることを示している。そのゴミのレベルが選挙で政治家を選ぶ。つまりメディアと社会と政治は、常に同じレベルだ。

    (レビュアー:草野真一)


    ※本記事は、講談社BOOK倶楽部に2021年1月28日に掲載されたものです。
    ※この記事の内容は掲載当時のものです。




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