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  • 柚月裕子さんが綴る、故郷の小さな書店の思い出「別世界へいざなう羅針盤」

    2015年12月04日
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    日販 商品情報センター「日販通信」編集部
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    いま最も注目されるミステリー作家の一人、柚月裕子さん。『ウツボカズラの甘い息』は、ほんのひきだしでも「小説太鼓判」の第2弾銘柄としてご紹介しました。

    柚月裕子さん『ウツボカズラの甘い息』小説太鼓判の第2弾が全国の書店で展開中!

    今回はそんな柚月さんに「書店との出合い」を綴っていただきました。「作家・柚月裕子」誕生の原点となった、1軒の本屋さんのお話です。

    yudukiyuko_prof柚月裕子
    ゆづき・ゆうこ。1968年、岩手県生まれ。2008年、『臨床真理』で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。『検事の本懐』で2013年第15回大藪春彦賞を受賞。主な著書に『最後の証人』『蟻の菜園 ―アントガーデン―』『朽ちないサクラ』『孤狼の血』など。

     

    別世界へいざなう羅針盤  柚月裕子

    その書店は、バス停の側にあった。小さな町の、小さな本屋さんだ。

    うなぎの寝床のような造りで、間口が狭い。重いガラス戸を開けて中に入ると、フロアの真ん中に細長い書棚がある。書棚を挟んだ両側は通路になっていて、右壁面の棚には雑誌、左側の棚には辞典などの参考書類が置かれていた。店を縦に仕切る書棚の片面は漫画コミック、反対側には文庫が並んでいた。

    中学生の頃、私はひたすら、生まれ故郷のその書店に通っていた。

    書店は、自宅からバスに乗って三十分、往復一時間かかる場所にあった。片道百十円、往復で二百二十円。当時のわずかな小遣いは、すべてバス代と本代に消えた。

    いまのようにネットの情報がない時代は、いつ、どのような本が発売になるのかもわからなかった。とにかく足しげく通って、自分の目で確かめるしかなかった。

    書店に入り、一番に向かう場所は文庫の棚だ。

    漫画雑誌は、自宅の近所の雑貨店にも置いてある。しかし、小説の類は本屋さんでしか手に入らなかった。

    小説の楽しさに目覚めたきっかけは、シャーロック・ホームズだった。たまたま手に取った講談社文庫に描かれていたホームズは、私が児童文学で知っている品行方正な人物ではなかった。退屈をなによりも恐れ、ときにコカインに手を出す、ひどく人間臭いホームズがそこにいた。

    推理小説の世界に魅せられた私は、片っ端からホームズを読み漁り、読み終えると違う訳者の本で一から作品を読み返した。手に入るホームズものが尽きると、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンに移った。それも尽きると、司馬遼太郎や山本周五郎の時代小説に手を出した。

    いまにして思えば、迷惑な客だったと思う。マンガ本の立ち読みをする人間はめずらしくないが、小説の立ち読みをしていた者は、田舎ではそう多くなかったと思う。しかも、一度読みはじめたら、一区切りつくまで何時間でも粘った。小遣いに限りのある少女にとっては、罪悪感よりも、本を読みたいという欲求のほうが勝った。

    田舎町で暮らす少女にとって、書店は世界そのものだった。十九世紀末の霧のロンドンを歩いたり、オリエント急行に乗ったり、江戸時代に遡り武士道のなんたるかを学んだりした。

    小説のなかではなんにでもなれた。性別を変えて探偵にもなれたし、ときには市井の浪人にもなれた。

    校則や親に縛られる学生時代の日々のなかで、本を読んでいるときだけは、自由になれた。書店は自分の心を解き放つ場所だった。

    故郷の小さな書店は、いまはもうない。二〇一一年の三月に起きた東日本大震災で、津波にのまれた。震災のあと被災地を訪ねると、店があった場所には、鉄筋コンクリートの鉄骨だけが建っていた。

    自分が通った書店はもうないけれど、自分の胸には、往復一時間かけて書店に通っていたときの、あのワクワクした想いが深く刻まれている。あのときの高揚感を胸に秘め、いま小説を書いている。

    自分の本が、かつての自分のような人の手に渡り、別世界へいざなう羅針盤になれれば、これに勝る喜びはない。

     

     著者の新刊 

    ウツボカズラの甘い息
    著者:柚月裕子
    発売日:2015年05月
    発行所:幻冬舎
    価格:1,760円(税込)
    ISBNコード:9784344027718

    家事と育児に追われ、かつての美貌を失った高村文絵。彼女はある日、趣味の懸賞でディナーショーのチケットを手にした。参加した会場で、サングラスをかけた見覚えのない美女に声をかけられて……。


    (「日販通信」2015年12月号「書店との出合い」より転載)

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