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過去の自分と出会う物語、といえば、タイムマシンなどのSF的なガジェットをつい思い浮かべてしまうが、いかにもこの作家らしいやり方で読者を昭和の昔へと連れていってくれるのが、中村航の『世界中の青空をあつめて』である。
心折れて帰郷し、モラトリアムな日々を送る主人公和樹の足を東京へと向けさせたのは、2度目のオリンピック開催決定を伝えるニュースだった。託された一通の古い茶封筒を手がかりに、彼は若き日の祖父と繋がりのあった5人の人物を訪ねて歩くことに。
主人公が引きずる陰鬱さそのままの序盤だが、タイムカプセルとともに眠っていた半世紀前の約束が、再び実現に向け動き出す展開がなんとも心地よい。作者の十八番である明朗快活な幸福感が広がっていく中、オリンピックに沸いた昭和の一時代に少年少女たちが抱いた夢の輪郭が鮮明に浮かび上がっていく。祖父の若き日々を追体験し、自らの過去を浄化していく主人公の再生の物語も爽やかだ。
一方、衛星探査のミッション中の事故で宇宙空間を彷徨いながら、58年ぶりに奇跡的に生還した宇宙飛行士が主人公という梶村啓二の『惑星の岸辺』の設定は、かなりSF的だ。しかし、コールドスリープから目覚めた彼が、失われた過去を取り戻そうとしていく物語には、デビュー作『野いばら』で特徴的だった恋愛小説的なロマンチシズムが香る。
主人公と、彼のリハビリテーションを担当する医務官の女性ムラサキとの間に起きる不可解な出来事をめぐって展開するお話から、妻や知人たちのほとんどは他界し、自身の記憶も断片的でしかない主人公が抱えるそこはかとない孤独感が、読者の心にも静かに忍び寄ってくる。妻の生前の消息や、ムラサキという女性の謎めいた存在感が、濃やかな文章表現の中から、ほのかに浮かび上がるあたりも印象的な一編である。
群像新人文学賞の受賞歴もある朝比奈あすかの『自画像』は、「人が絶望した顔を見たことがありますか?」という意味深な一言から始まる。結婚間近と思しき男女の会話劇(ダイアログ)風に幕のあがった物語は、ほどなくヒロインたちの少女時代へと時間を遡っていく。総ての始まりは、入試という難関を乗り越えて間もない入学式の日だった。
容姿や運動能力で生徒同士が格付けや序列を作るスクールカーストという現実を、よもや知らない読者はいないだろう。題材に採り上げた小説も多いが、歪なヒエラルキーが招くカタストロフィーを描いてここまで苛烈な作品はおそらくなかった。自分の居場所を求めて教室を彷徨うヒロインたちの姿や、苛めの連鎖に彼女たちが呑み込まれていくさまは、まるで現代の地獄絵図を眺めるようで、慄然とせざるをえない。
もしも商店街文化というものがあるとすれば、今の日本では消滅の危機に瀕しているといっていい。客足が遠のき、空き店舗だらけの寂れた商店街は、各地で珍しくない風景になってしまった。星野智幸の『呪文』は、そんな終末観漂う現代の世相を背景にしている。
ファッショナブルな隣町に近く、安い賃料にひかれメキシカン・サンドイッチの店を開いたものの、次々と周囲が店を畳む不景気に音をあげた霧生は、商店街の改革派と目される人物に相談した。その男、図領の打つ手は、新たな働き手の誘致や融資制度、さらには自警団の結成と、次々功を奏するが、やがて事態は迷走を始める。
悪質なクレーマー事件やドミノ倒しのような改革騒動の波紋が、世界を奇妙な方向へとねじ曲げていく展開は作者の真骨頂。その中で勢いに背中を押され、方向を見誤っていく人々は、われわれ自身かもしれない。そんな危機感を抱かずにはおれない警告の書でもある。