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古谷田奈月さんの『無限の玄/風下の朱』が、7月12日(木)に筑摩書房より発売されました。
死んでは蘇る父に戸惑う男たちを描いた「無限の玄」(第31回三島由紀夫賞受賞作)と、野球に賭ける女子たちの熱く切ない物語「風下の朱」(第159回芥川賞候補作)を併録した本作。古谷田さんにとって、この2作は「父と娘のような関係」であり、その執筆は自身の「女性」という性に向き合う決心が必要な、苦しい挑戦だったそうです。
果たしてそれは、どんな道のりだったのでしょうか。その葛藤と本作から自身が見い出したものについて、古谷田さんに文章を寄せていただきました。
このたび刊行した『無限の玄/風下の朱』には、書名として併記した2作が収録されており、この2作はどこか父と娘のような関係にある。私としては、「無限の玄」を書かなければ「風下の朱」を書くことはなかった、という単純な理由でそんなふうに感じているが、テキストの中にその関係を見出すこともできるかもしれない。
さらに、まず発表した「無限の玄」は私という母から生まれた息子だということもできる。というのは、この作品は女性の書き手のみを集めた「早稲田文学 増刊女性号」からの執筆依頼に応えたもの、つまり「女としての私」が書いたものだからだ。先方の決めたテーマに沿って書くことはあっても、原稿以前の、私という著者にあらかじめ何らかの制限――この場合では「女である」と自覚すること――を設けられたのはまったく初めてのことで、これは非常にハードな挑戦になった。
打ち明ければ、依頼が来たとき、引き受けようかどうしようか悩んだ。ちょうどその頃『リリース』(光文社)という本を出したばかりだったのだが、男女同権をテーマの一つとしたその作品を書いた動機というのが、そもそも「性の縛りから自由になりたい」というものだったのだ。「女」や「男」ではなく、私は「人間」を書きたかったし、自分もそうありたかった。『リリース』という作品を足がかりに、より広く自由な場所へ出たかった。
しかし、結局のところはどうだったろうか。『リリース』は私を性から解放しただろうか。それどころか、あの作品を通して私は、性と個とは切り離せるものではないという現実にむしろ行き着いたのではなかったか。
そう思い至り、また、抵抗を感じるものにこそ自分の本質が隠されているという経験則を信じ、「女として」書く決心をした。「無限の玄」では、女性という性を実証するところの男性をまず見つめ、「風下の朱」では、いよいよ自身の性と直面した。
それは想像以上につらい道のりだった。執筆が日常である以上、この2作に取り組んでいるあいだ私は常に自分の性を意識していなければならず、その窮屈さに苛立つこともあった。性と個とは切り離せるものではないという実感はますます深くなり、同性同士の締め付けを描きながら、何度も「呪い」という言葉が浮かんだ。
それでも、登場人物の彼ら、彼女らの戦いに当事者として関わった私の中にいま残っているのは、ありがたいことに絶望ではない。それどころか、自由を目指して書いた『リリース』から反対に抑圧を見出したように、抑圧を描いた『無限の玄/風下の朱』から、ようやく自由を見出せたのだと感じている。性とは誰もが引き受けざるを得ないものだが、それをどう扱っていくかは自分自身で決めて構わず、これまでの慣習や他者から求められる文脈で解釈する必要はまったくない。それが私の見出した、性における自由である。
今作は私の苦しい挑戦の跡だが、その先へと続いていくのは、楽しく爽快な挑戦だと信じている。
古谷田 奈月 Natsuki Koyata
1981年生まれ。小説家。2013年、『星の民のクリスマス』(「今年の贈り物」を改題)で第25回ファンタジーノベル大賞受賞。2017年、『リリース』で第30回三島由紀夫賞候補、第34回織田作之助賞受賞。その他の作品に『ジュンのための6つの小曲』『望むのは』など。
・第159回芥川龍之介賞候補作が発表:古谷田奈月「風下の朱」、北条裕子「美しい顔」、松尾スズキ「もう「はい」としか言えない」など5作