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あなたには、死後削除してほしい“秘密のデータ”がありますか?
dele(ディーリー)は、校正用語で「削除」という意味。本多孝好さんの新刊『dele ディーリー』は、「依頼人の死後、本人に代わって、指定されたデータを削除する」という風変わりな仕事を描いた連作ミステリ小説です。
「誰にも見られたくないデータ」の内容は、詐欺の証拠や異性の写真、果ては隠し金までさまざま。本作の主人公となる2人の青年は、仕事を通して“秘密のファイル”を覗いてしまったことから、第三者の死にまつわる謎に巻き込まれていきます。
現代的な問題をモチーフにしながらも、遺された者の思い・遺された者への思いが胸を打つ本作について、著者の本多孝好さんにお話を伺いました。作品に込めた思いだけでなく、作家としての意外なルーツも語ってくださっています。
――『dele ディーリー』は、一風変わった依頼を引き受ける事務所「dele.LIFE」が舞台の連作ミステリです。どのようなことをきっかけに構想された物語なのですか。
私自身、毎日パソコンに向かって小説を書くという、いわば「データを作る」仕事をしています。その大半は、誰にも見せることのない、不要なデータがほとんどです。
そういうものも、消すとなるとひとつ作業が増えますから、あえて消すことはしません。そうすると、その取っておいたデータは、自分が発表してもいいと思ったものよりも、はるかに膨大になっていく。自分が人に見せるべきではないと判断した文章が、いつか自分が死んだときに誰かの目に留まってしまうのであれば、「消せるものなら消したいな」という思いから発想しています。
こういったことは、おそらく誰にでもあると思うんです。これだけデジタルデバイスが身近になってきて、写真であれ、動画であれ、メールをはじめとする文章であれ、自分の身の回りに、無意識に残っているデータが大量にある。改めてそう考えると、消したいものは、たぶんみんな持っているだろうなと。
――「dele.LIFE」の仕事は、「その人の死亡を確認後、指定されたデータを削除する」ということですね。同じようなビジネスモデルは実在するのでしょうか。
一番近いものとしては、「一定期間アクセスがないと、ハードディスクのデータをすべて消す」というソフトが商品化されています。「手作業で特定のデータだけを消す」というサービスを専業にしている会社はないのではないでしょうか。
――「dele.LIFE」で働くのは、所長の圭司と、彼に雇われることになった祐太郎という2人の青年です。淡々と依頼をこなす圭司と、依頼者の死亡確認に出向き、遺された人々と触れ合うことで彼らに感情移入してしまう祐太郎。この対照的な2人は、どのように生み出されたのでしょうか。
最初のイメージとしては、圭司のほうが先に出てきています。彼は、情報を通じて世界を認識しようとしている人。一方、なんでも目で見て、人と会って、話して、自分の手触りで世界を認識しようとするのが祐太郎という人間です。
――依頼人たちが削除を望むデータは、犯罪に関わるリストや異性の写真、家族にも隠されたお金の存在などさまざまです。事件の発端はデジタルデータという“無機質”なものですが、どの物語にもそこに生きる人々の思いがあり、胸を打たれました。
この物語に関していうと、本来話の中心である人は(亡くなっているので)登場もしないし、話もしません。すでにこの世にいない人のことを、みんなでのぞき込むという物語です。読者の方それぞれが持っている、あるぽっかりした穴みたいなものをのぞき込む感情と、うまくシンクロして揺り起こすことができればと思っています。
――圭司と祐太郎は、依頼を通して第三者の死に関わっていきますが、彼ら自身も身近な人の死を背負ったままでいます。祐太郎の事情は本作の中で徐々に明かされていきますが、それでもまだ閉ざされたままの部分がありそうです。
当初からこの物語を1冊で終わらせるつもりはなくて、バディものとしてしばらく続けさせてもらう予定で書いています。2人の関係を見たときに、最初に見えやすくなるのは当然祐太郎のほうだと思うので、今回は祐太郎が中心の物語になりました。
祐太郎は圭司に、彼の抱える死の一端を吐露しましたけれど、圭司が祐太郎に打ち明けるまでにはまだ時間がかかるでしょうし、乗り越えなくてはいけないことがいくつかあるでしょう。それでもいずれ、この2人がお互いを知る上において、それぞれが抱える死に向き合うことがあると思っています。
――本多さんには、死の影が色濃い作品が多いように感じます。今作も、いわば依頼人の死からスタートする物語ですね。
死というものに関して、そんなに強くテーマ性を求めているわけではないんです。デビュー当初からわりと、「生と死」や「死を中心に描く」などと評されることが多かったのですが、自分自身の中にはそこに強い思いはなくて。
逆に「〈死〉を中心に書いたらどんな物語が出てくるのだろう」と思って書いたのが、15年ほど前に出した『MOMENT』で、死を前にした人たちの願いを、病院で清掃員のアルバイトをする大学生がひとつずつ叶えていくという物語です。この作品は明らかに「死」をテーマに書いていますが、その当時の死はやはり「第三者の死」であって、「残された人間がその死をどう受け止めるのか」という物語として書きました。
今回は、「死に際して自分は何を思うだろう」と、どちらかというと死者に対して自分を重ね合わせるようなイメージで書いています。
――確かに、祐太郎と圭司が事件を追う中で浮かびあがるのは、依頼者であり、周囲の人の「生」の部分ですね。
「生」というよりは記憶ですね。死んだ人にまつわる記憶を、生きている人間がどう捉えるのかだと思います。
記憶というのは自分の中にしか存在しないものですし、簡単に消えたり、歪んだりする。一方で、歪まない、確かにそこにあるものとしてデータが出てきたときに、「記憶」と「記録」ではどちらが勝つのだろうか。もし自分が持っている記憶とは相反する記録が出てきたときに、その記録によって記憶が歪められてしまうことはないだろうか。そんな思いがありました。
――まさに、現代ならではの問題といえそうですね。
デジタルデータとアナログデータでは、アナログのほうが意味が残りやすいと思うんです。たとえばフィルム撮影して、現像した写真があるとします。アルバムには残すべき大切な写真だけを入れるでしょうし、思い出の写真だったら、写真立てに入れて飾ることもあるでしょう。
デジタルデータの場合は、大切なものであろうと失敗作であろうと、消さない限りは全部同じデータ量で、並列的に並ぶ。そうすると見る人が勝手にストーリーを作ってしまったり、その人の像を勝手に作ってしまったりということがあるのではないでしょうか。
いまの年配の方が、デジタルデータをそんなに残すことはないと思うのですが、これから先は、大量に残して死んでいく人たちが続々と出てくる。そうすると、残された人たちがそのデータに対してどう向き合うのか、ある種の覚悟が問われていくだろうなと思います。