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  • カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』――失う記憶、取り戻す記憶

    2015年07月17日
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    日販 商品情報センター 「新刊展望」編集部
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    架空の生き物を登場させた理由

    『忘れられた巨人』には、鬼や竜や妖精など、想像上の生き物が多数登場する。

    「科学がないこの物語の世界に住んでいる人なら存在を信じるような、想像上の生き物を登場させることにしました。鬼や妖精が跋扈する世界を描くことによって、人間の『恐れ』のような感情をより深く表すことができるのです」

    また、竜は物語の中で大事な意味を持つ。山の上に住む竜の吐く息が、人々が記憶を失う原因となっているのだ。

    「一部の人は、記憶が取り戻せれば大事な思い出も戻るから竜を殺したいと考えます。しかし中には、竜は守るべきだと思う人たちもいます。記憶を全部取り戻すと、いやな記憶も戻ってきてしまうから。竜を生かしておいて、忘れた記憶は埋もれたままにしたほうがいいのではないか……それがこの小説の基本的なメタファーになっているのです」

     

    自己欺瞞を描くこと

    もう一つ『忘れられた巨人』で特徴的なのは、会話に反復が多用されていることだ。これには明確な意図があるという。

    「登場人物、例えば夫婦の会話の中で反復を繰り返すことによって、お互い歩調が合っているようす、親密さを表すことができます。さらに、そのような互いに信頼した人間関係の中で、本当はあやふやで不安なことについて、自分たちに言い聞かせ信じ込ませる、自己欺瞞が醸成されるさまを表したかったのです」

    記憶が失われている中、とにかく息子を探そうとする主人公。息子はなぜ消えたのか、そもそも本当にいるのか。実はわからないのだが、息子が見つかればハッピーエンドになると思っている。実際にそう信じ込むことで自分自身を納得させようとしているのだ。

     

    国家における「記憶」の問題

    人はどこまで自らを信じ込ませ、騙せるのか。国や社会も同様に、忘れたい記憶、つらい過去とどのように向き合うのか。『忘れられた巨人』では、個人にとどまらない、より大きなレベルで記憶を失うことと取り戻すことについての問題提起がされている。

    「国家の歴史の中には、時には忘れたほうがいいものもあると思います。そうしないと国のまとまりがなくなって、社会全体がばらばらになってしまうかもしれない。忘れたままにしておき、時間が経って自分が強くなるまで待ったほうがいいということもあります」

     

    「忘れられた巨人」とは

    イシグロさんがこの小説を書くきっかけになったのは、1990年代にユーゴスラビアで起こった内戦だった。

    「ヨーロッパで起きたこの紛争は、私には本当にショックなことでした。隣人同士が一夜にしてむき出しの対立をして殺し合う。同じような大虐殺がルワンダでも起こりました。部族として一世代、二世代前の記憶が再び蒸し返され、政治的な問題になっていったのです。それが引き金となって、記憶についての問題を考え始めました」

    人種差別、侵略、虐殺……すべての国に「忘れられた巨人」は存在する。新たな対立を避けるため記憶を失ったままでいるのか、あるいは過去を乗り越えるために記憶を取り戻し、向き合うのか。この問題に簡単な答えはない。

    日本における「忘れられた巨人」とは何か、イシグロさんは具体的に触れなかったが、日本が過去と向き合うには、あるいは過去を乗り越え他国と新たな関係を築くには―。戦後70年を迎えた年に、イシグロさんが日本で講演を行ったことは大きな意味を持つはずだ。

    【次ページ】余録:ファンの視点で講演会を振り返る

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