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ミステリの特徴をひと口でいうなら、謎とその合理的な解決だろう。しかしこれは勿論、このジャンル小説の専売特許ではない。ルーツは聖書とも紀元前の史書とも言われ、大袈裟にいうなら人類の歴史と寄り添ってきたこの手法は、小説に限らず、あらゆる物語にとって抜群の相性といえるだろう。今回は、その好例から。
中村文則の『私の消滅』は、謎めいたメッセージから始まる。“この手記を読むと、人生の全てを失うかもしれない”という僕への警告は、何を意味するのか。1冊のノートに綴られていたのは、家族から蔑ろにされて育った男の数奇な少年時代だった。記述は連続幼女殺しの宮崎勤事件にも言及し、精神医学的な考察が続くが、ある箇所で唐突に終わる。その時、目の前のスーツケースを開けた僕は、そこに死体を発見する。
手記に加え、メモの断片や手紙など、まるで凝りに凝った構成の推理小説を読むようだが、やがて一人の女性の運命をめぐる物語が読者の前に立ち現れる。めまぐるしい展開は、記憶の脆弱さやアイデンティティの儚さをいやでも読者に突きつける。“そもそも人間とは何なのか?”という人にとっての根本の問題を突き崩そうとする破壊力には、圧倒されるばかりだ。
過疎化がすすむ九州の小島で、肩を寄せ合い暮らす4人の女たち。本名を封印し、虫の名で呼び合う彼女らには、世を忍ぶわけがあった。しかし、そこに東京からの新参者、ミツバチとアゲハの母娘が加わり、平穏だったグループホームに微妙な変化をもたらす。島に来て5年目の主人公テントウムシの毎日が落ち着かなくなったのも、そのせいだった。原田ひ香の『虫たちの家』は、こうして始まる。
インターネットの普及は人々に豊かさをもたらしたが、一方で失われたものもある。島のグループホームは、ネット社会に居場所を奪われた主人公らにとって、世間の悪意から逃れる避難場所であり、テントウムシはそれを守るため、必死のたたかいを繰り広げる。本作もまた推理小説の叙述トリックを思わせる大胆さが、ヒロインの自立を鮮やかに印象づけている。
ややもすると古風な佇まいを連想しがちなホラー小説だが、この分野をリードするのもまた、時代とシンクロする作品である。審査委員が満場一致で折り紙を付けた日本ホラー小説大賞受賞作の『ぼぎわんが、来る』で破格のデビューを飾った澤村伊智の第二長編『ずうのめ人形』も、そのひとつだ。
オカルトライターの変死体の傍にあった手書きの原稿には、ある人形にまつわる忌まわしい来歴が記されていた。少女の一人称で書かれた謎の小説と、人形の呪いから必死に逃れんとする人々の物語が交互に語られていくが、都市伝説の伝播という主題も見事ながら、ミステリに倣うかのような作者の企みが実に冴えている。やがて明らかになる邪悪なものに命が吹き込まれる過程のやるせなさは、時代の空気とも鮮やかに重なり合う。
付けも付けたりというタイトルの表題作を筆頭に、11の小品を収めた山田詠美の作品集『珠玉の短編』だが、あとがきで作者は、どの作品の着想も言葉の妄想が原点と書いている。例えば表題作は、文学作品を褒め称える際に安易に使われがちな“珠玉”という言葉を自作に冠され、悶絶する女性作家の苦悩が迷走する。
また川端康成文学賞を受賞した「生鮮てるてる坊主」のキーワードは、“男女の友情”だろう。純粋培養された嫉妬が暴走していく様はホラー小説もかくやで、肌が粟立つ感覚にぞっとさせられる。いずれの妄想も、その向かう先には性のさまざまな形があって、当事者が真剣であればあるほど色濃く滲んでしまうおかしみが描かれる。最初に言葉ありきの世界に遊ぶ、エロスのショーケースである。
(「新刊展望」2016年9月号 「おもしろ本スクランブル」より転載)
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