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〈わたし〉が山に行くときの準備で、欠かせない事柄がある。それは、着替えから身の回り品、防寒具や雨具、ヘッドランプに地図に方位磁石、食料(お楽しみのお菓子含む)などなど、すべての持ち物を揃えたら、最後に、持って行く本を選ぶこと。持って行って、読めなくとも構わない。〈本は精神安定剤、もしくはお守り〉だから。
5つの山旅に彼女がどんな本を携えて行くのか。さらに、山小屋の休憩室の本棚でめぐりあう一冊は。それらも、この物語における読みどころの一つと言えるだろう。
北村「どこに出かけるにしても、何か本を持っていないと服を忘れたような気になる……それは私の実感ですね。黒澤明の『用心棒』で、仲代達矢演ずる新田の卯之助が死の間際、“銃を握らせてくれ。そいつがねえと俺は裸みたいな気がするんだ”と言うけれど、そんな感じ(笑)。今日も電車の中で何を読もうか、本を選んできました。主人公が山に持って行く本を今度は何にするかと、作者も選んでいるわけです。
現実問題としては、山に持って行く本は大きさ、重さも気にしなければいけないから、文庫本で、短い作品がいくつか入っているものがいいでしょうね。ちょっとしたときに開けるような。行き帰りの車中で読むなら、大長編もいいかもしれないけれど。
山に持って行くのにふさわしい本を選ぶというよりはむしろ、そのときの自分がどんな状態かで、持って行く本は決まると思います」
山は、思索や内省が似合う場所。一人で山歩きをする〈わたし〉は、忙しい日常の中で見失いそうな自分と、山で向き合う。
北村「山に登るときはほかにすることがないし、いろいろな思いが頭を巡るのでしょうね。苦しいことがあったときに苦しいコースに行くと、考えなくてもいいようなことまで頭の中に浮かんできたりして……。
大きな自然を前にすることで、自分の小ささも見えてくるんじゃないかと思います。山歩きをする道に人はいるだろうけれど、人口密度は街中ともちろん違うし、自然の風景の中に自分が置かれることで、日常と違ったいろいろなものが見えてくるのでしょう」
第4話「五月の三日間」にこんな場面がある。誰もいない残雪の山を、風景に目をやる余裕もなく、半分涙目で下っていくわたし。雪解け水が伏流するところを、ばっしゃんと踏み抜いてしまう。その清らかな水に触れたとき、心が動く。
〈ふと顔を上げれば、遠くの青い山々と、そのわずか上を横に行く一筋の白い雲。そして広がる大きな空。
こんな大きな風景の中に、ただ一人の人間であるわたし。それが、頼りなくもまた愛しい。しみ入るように思った。
―思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。〉
山という、普段生きる環境と切り離された場所で、自分に向き合い、自己肯定を得た瞬間。
北村「山は、良き別世界ですよ。何らかの解放を得て、また復帰してくる。行きっぱなしになってしまうわけにはいかないから、戻るために行くんです。
何かあったときには、少し脇道へ逸れてみる。身動きが取れなくなったら、違う場所にちょっと行ってみる。そういうのは結構大事なことなんだと思います」
山に、また行きたい。山登りは経験したことがないけれど、一度登ってみたい。どんな人の心をも山へと誘う小説だ。
北村「初心者の方は、近くの低い山から始めてください。空気がちょっと変わるだけで、心がずいぶん洗われるだろうと思いますよ。
ただ、この本を読んで山に行きたくなったからといって、簡単な気持ちでは登山をしないでください。それだけは申し上げておきたいです。ここに出てくるのは上級者向けの山。こんな山にくれぐれもいきなり行かないように。この主人公も、最初の2年くらいは基礎訓練をして、低い山に登ったりしているんです。
山の事故のニュースも多いですよね。軽装でふらっと行ってはいけません。準備はしっかり。彼女はヘッドランプを山小屋に置き忘れて失敗しています」
山旅の前に持ち物を準備する場面は、遠足前夜のようなワクワク感があふれ、読んでいて楽しい。山行きを考えている人には実用的でもある。
山登りを知っている人はその魅力を再認識し、知らない人は本の中で登山体験ができる。登る人も登らない人も、そしてこれから登りたい人も。『八月の六日間』、ぜひ手にしてほしい。
北村「辛いことや苦しいこと、受け容れ難いことを抱えながら、主人公は最後にある言葉に辿りつきます。彼女につきあってもらうことで、何らかの救いになる部分があればと思います」
(2014.5.9)
北村薫 Kaoru Kitamura
1949年埼玉県生まれ。早稲田大学卒。母校埼玉県春日部高校で国語を教えるかたわら、1989年『空飛ぶ馬』で覆面作家としてデビュー。1991年『夜の蝉』で第44回日本推理作家協会賞(短編および連作短編集部門)、2006年『ニッポン硬貨の謎』で第6回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)、2009年『鷺と雪』で第141回直木賞を受賞。2015年には第19回日本ミステリー文学大賞を受賞した。近著に『うた合わせ 北村薫の百人一首』『中野のお父さん』『太宰治の辞書』ほか。
(「新刊展望」2014年7月号より)