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文学作品から日本人と納豆の関わりを探る国文学者と、「納豆」という大陸を縦横無尽に駆けめぐる辺境作家が語り合う「知られざる」納豆の姿とは。
石塚修 Osamu Ishizuka
1961年栃木県生まれ。1986年、筑波大学教育研究科教科教育修士課程修了。博士(学術)。現在、筑波大学人文社会系教授。専門分野は日本近世文学・国語教育。著書に『西鶴の文芸と茶の湯』『日本語表現&コミュニケーション』(共著)『小学校知っておきたい古典名作ライブラリー32選』などがある。
高野秀行 Hideyuki Takano
1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部時代に書いた『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。1992~93年にはタイ国立チェンマイ大学日本語学科で、2008~09年には上智大学外国語学部で、それぞれ講師を務める。『ワセダ三畳青春記』で第1回酒飲み書店員大賞、『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞を受賞。他の著書に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(共著)『恋するソマリア』など多数。
―― 高野さんは『謎のアジア納豆』の執筆中に石塚先生に取材されたそうですね。
見て、嗅いで、作って、食べる。壮大すぎる「納豆をめぐる冒険」。タイやミャンマーの山中をさまよううちに「納豆とは何か」という謎にとりつかれ、日本では東北から九州を駆けめぐる。 知的好奇心あふれるノンフィクション。
高野 全国納豆協同組合連合会の情報サイトで石塚先生が連載されていた「納豆文学史」が、日本における唯一にして最大の納豆史の文献なので、サイトを拝見して、疑問点などをお尋ねしました。納豆って、本当におもしろいですよね。
石塚 なぜ納豆だけがこうやって身元調べをされるのか、大変不思議な食べ物ですね。『納豆の起源』を書かれた地理学者の横山智さんや民俗学の専門家も研究されている。みんなが発祥の地を決めたがるんです。高野さんの『謎のアジア納豆』でも、日本納豆の源流を調査なさっていますね。
高野 私も最初は、納豆がどこで発祥したかについては興味がなかったんです。アジア大陸の納豆をテーマにしていたので。東南アジアは記録を残す文化ではないので、歴史はほとんどわかりません。住んでいる人たちも自分たちの文化の歴史についてあまり考えない傾向が強い。僕も何か所かで聞いてみましたが、みんな「どこで納豆ができたかなんて、考えたこともない」という反応です。ところが日本に帰ってきて周りの人たちにアジアにも納豆があると話をすると、まず驚く。その後で、「それは日本の納豆と同じものなの?」「食べ方は違うの?」「どっちの納豆が先にできたの?」と聞かれます。そういう疑問に答えなくてはと日本納豆について調べ始めたら、今度は僕のほうがその謎に取り込まれてしまいました。
「納豆文学史」を拝見して、江戸時代以前はもっぱら納豆汁として食べられていたというのは衝撃的でした。僕が納豆を追究していく上での大きなターニングポイントになりましたね。アジアでさんざん納豆を食べてきましたが、ご飯にかけて食べるのはごく一部で、煮物に入れたり、炒めたり。いろいろな食べ方があるのはわかっていても、日本の納豆はきっと昔からご飯の上にかけて食べていたに違いないという思い込みにとらわれていたんですね。
石塚 私もチェンマイだけは現地まで行きましたが、現地の人に聞いたら、納豆はせんべいのような形の乾燥したものと、醤(ジャン)状のものなんですね。プレーンな味のほかに、唐辛子などの香辛料を入れて、自分の味にして売っている。それをスープに入れたり、砕いてパパイヤサラダに入れたりして食べます。ご飯にのせても食べるようですが、どうも最近、リタイアした中高年の日本人がチェンマイにたくさん行っていて、そういう食べ方をすると話すことで混じっているようです。
現地の人は学術的に調べているわけではないので、5年前から始まった食べ方でも昔からそう食べていたと言う。こういう本にまとめられる時のご苦労は、そこをどう篩にかけるかだと思います。韓国のチョングッチャン(発酵させた大豆のペースト)も、仕込む家に生まれた人に聞くと、半分は取り分けてオンドル(床下暖房)の上に置いて納豆にするそうです。いつからそうしていたのかはわからないですし、中国からも伝わって来たのかもしれないけれど、日本から納豆文化が輸出されて融合している可能性もゼロではない。それをどこで分けるのかは大変な作業ですよね。
高野 難しいですね。
石塚 日本にも、納豆を手作りするところがわずかに残っています。京都の京北町と、滋賀の大津市仰木、和歌山県紀美野町の3か所です。紀美野町では基本的には秋、米の取り入れが終わって、畔(あぜ)に作られている畔豆を利用して味噌や納豆を仕込む。地方によってはそれで豆腐を作ったりします。納豆はお正月に向けて仕込むような、山間部のハレの食膳にのぼるものだったようです。
高野 京都の京北町は私も行きましたが、本当に山の中ですよね。住所でいうと右京区とあるので街中かと思ったのですが、行ってみたらバスを乗り継いで山奥にどんどん入っていく。1時間半くらいかかりました。
石塚 今は陸路で行くので遠いのですが、あの場所は桂川の上流なので、昔は京都の御所に材木を納めるバックヤードでした。山深い、寒いところですが、京北町からいろいろなものが宮中に届けられたことは確かです。「関西人は納豆を食べない」というのもステレオタイプの誤った認識の一つですが、関西の人が納豆を食べないのは、戦後70年くらいのことだと思います。
――『納豆のはなし』では、昔は一般家庭は1日1度しかご飯を炊かず、関東は朝炊き、関西は昼炊きだったと書かれていますね。
納豆は千利休の茶会に出され、松尾芭蕉の俳句、夏目漱石や太宰治などの作品にも描かれてきた。「納豆」が登場するさまざまな文章を紹介しながら、納豆と日本人の知られざる関わりを楽しく軽妙な語りで解き明かす。
石塚 それも文学作品を調べている中でわかったことです。朝炊くからこそ関東では、「熱々のご飯に納豆」が朝食の定番になったのではないかと。
高野 同じことを、以前村上春樹さんがエッセイで指摘されています。神戸の方なので、もともと納豆を食べる習慣がなくて、食べる気もしなかったけれど、ある時食べたらすごく美味しかったと。その後で先生がまさに書かれていたことが理由で関西では納豆を食べないのではないかと想像されていて、同じ結論になっています。
石塚 関西でも食べないわけではなくて、どちらかというと小鉢感覚、おかずなんですね。納豆だけ食べて、別にご飯を食べたりする。奈良や和歌山では納豆に塩をまぶして甕の中に入れておき、おかゆを食べるときに3、4粒のせて食べます。大粒だからですね。大徳寺納豆と感覚は一緒です。
(「新刊展望」2016年6月号より転載)