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アルコール依存症の母親をもつ柳岡千明は、退院後に母親が入所する予定の「セゾン・サンカンシオン」という施設を見学に訪れる。駅から20分以上も歩き、住宅街を抜けた林の中にあるそこは、施設といっても、見た目は年季の入った2階建ての民家。そして、さまざまな依存症に苦しみながら共同生活を送る女性たちと、ベリーショートの黒髪と使い込まれたレザーのライダースジャケットが印象的な「塩塚美咲」という生活指導員がいた――。
看護師として働くかたわら、特殊清掃の仕事を描いた『跡を消す』で第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー、第2作『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』が第22回大藪春彦賞にノミネートされた前川ほまれさん。今年4月に発売された第3作『セゾン・サンカンシオン』について、お話を聞きました。
―― 個人的な話から始めて恐縮なのですが、私、かれこれ1年以上テレワーク(在宅勤務)を続けているんです。会社へ行くのは本当にまれで、打ち合わせもほとんどオンラインに切り替わりました。そんな生活になって何が変わったかというと、飲酒の頻度が上がったんです。仕事をするのもくつろぐのも同じリビングなんですが、最初のうちは「今日はこれで終わり。お疲れさま」と自分を労うつもりで缶を開けていたのが、いつの間にかオンオフを切り替えるスイッチそのものになっていて、仕事が終わると自然に手が伸びている。友人や家族に気軽に会えないなか、何をしてもなんとなく退屈で、酔っている間は何も考えなくてすむのも好都合でした。自覚はありませんでしたが、ストレスも溜まっていたんだと思います。ある時ふと「あれ? ここしばらく休肝日がない」と気付いて、ちょっと怖くなりました。
執筆中は気付きませんでしたが、僕も、『セゾン・サンカンシオン』を書き終えてみて「自分もコロナ禍の影響をけっこう受けていたんだな」と思いました。
振り返ってみると2020年は、僕としては、あまり四季を感じないまま、ぬるっと1年が過ぎてしまったという印象です。もともとあちこちへ出かけるタイプではありませんが、お花見をしている人たちを公園で見かけたり、お祭りへ向かう浴衣姿の人を電車で見かけたりするのを通して、間接的に季節を感じていたんだと思います。そういう光景も見られなくなったし、それまで以上に出歩かなくなったので、人との関わりを感じる機会も減りました。そうやって1年が過ぎ、『セゾン・サンカンシオン』をあらためて読んでみると、自分のなかに「寂しさ」が強くあったんだなと感じます。
お酒は、僕も増えましたね。もともと強くないので機会飲酒くらいでしか飲まなかったんですが、気付いたら寝る前に毎日飲んでいるような時期もありました。ちょうど『セゾン・サンカンシオン』を書いていた頃で、締切もありますし、何より「今書いているものがきちんと形になるのか」という不安が大きくて、ストレスを紛らわすためにお酒に頼っていたんでしょうね。無事本にしていただけたことで不安は解消され、飲酒のリズムも元に戻りましたが、その頃は、それ以外のいろんな要素も重なって、意図せずとも自分の内側にある「孤独」に意識が向いていたのかもしれません。
―― 今作『セゾン・サンカンシオン』は、どんなふうにして生まれたんですか?
『シークレット・ペイン』の執筆のために医療刑務所へ取材に行った時、スタッフの方が「半数が、違法薬物を使用して収容された人だ」と話していたのが印象に残っていたんです。依存症という題材は、小説家デビューした後、2作目に何を書くかを考えていた頃から候補のうちの一つにありましたが、その話をきっかけに「もっと知りたい」と思うようになり、書いてみることにしました。
まず看護師の「千明」という人物が生まれて、彼女を主人公に物語を書き始めたんですが、なかなか物語の密度を濃くするのが難しくて。最初のうちは長編小説にするつもりでしたが、千明以外の視点も取り入れたほうがより深く描けるんじゃないかと思って、連作短編集の形式をとることにしたんです。その結果、登場人物の一人だった「塩塚」が各章をつなげる接着剤のようなキャラクターになり、彼女のストーリーもたどるような構成になりました。
―― 全5章の間に差し込まれているナンバーサイン(#)の付いたエピソードも、依存症が何気ない日常と地続きにあることを強く感じさせる内容でした。今作の執筆を通して、新たに知ったこと、気付いたことはありましたか。
たくさんありました。たとえば、これまで依存症からの回復には「底つき体験」が必要だと言われてきました。「底つき体験」は簡単にいうと、「落ちるところまで落ちる」ということ。アルコールの常飲や泥酔によって人間関係や社会的地位を失ったりして「ここより下はない」「もう酒を飲んでいる場合じゃない」と本人が認識しなければ、回復しようという意志につながらないと言われてきたんです。
でもいろいろな文献にあたってみると、そんなになるまで放っておくと、死を選んでしまう人が多くなってしまうんです。だから本当は、本人が「底つき」するよりも前に手を差し伸べることが必要なんじゃないか。そんな考え方にもとづいて、回復を支援するケースが増えていることを知りました。窃盗症や最新の治療方針についても、今回取材や調査をしたことですごく学びがありましたね。
―― 取材をされていると、当事者たちの苦しみや、まさに“三寒四温”のような回復状況の一進一退もよくご存じかと思うのですが、それを物語として書くにあたって意識したことはありますか?
あまり難しく考えすぎると筆が進まなくなってしまうので、全体としては「登場人物たちが生き生きするように書きたい」というくらいで、あまり構成や描写を何度も練ったりはしていません。でも、現実のシビアな部分はしっかり入れようと思っていましたね。そのぶん、キャラクター同士のなにげない会話をたくさん織り交ぜて、雰囲気が暗くなりすぎないようにと意識しました。
僕は角田光代さんの小説がすごく好きなんですが、角田さんの書く物語って、ちょっと乾いた感じがあったり、一見しただけでは気付かないような毒が仕込まれていたりする一方で、最後に救いがあったり、優しく寄り添ってくれたりするようなものが多いんです。小説を書くきっかけになった作家さんでもあるので、そのあたりの間合いのとり方というか、空気感みたいなところに影響を受けているかもしれません。
―― 1作目、2作目、そして今作と拝読して、「今生きていること」「生きていくこと」そのものを描くことへの思いが強まっているような印象を受けました。デビュー前から現在までをご自身で振り返ってみて、何か変化を感じていることはありますか。
先ほど「登場人物たちが生き生きするように書きたい」と話しましたが、デビューする前は、正直なところ登場人物のことはあまり深く考えずに、物語のなかでどんな事象が起こるかにけっこう重点を置いていたんです。それは、作品を書き続けてきたなかでの変化かもしれないですね。
これまでの作品は、主人公に限らず登場人物に対する思い入れがあまり強くなかったんですが、『セゾン・サンカンシオン』は主役級ではないキャラクターまでけっこう皆好きで、今も心に残っている人が多いです。
第5章の後にエピローグが付いていますが、これも、ずっと付けるつもりがなかったんですよ。でも、この人物のことを思うと「その後」まで書いてあげたくなってしまった。それくらい今作は、登場人物一人ひとりへの思い入れが強いです。自分自身が、不安が続くこういう状況のなかで“希望”を見たかったというのもあるかもしれません。
―― アルコール依存症の母親をもつ「千明」、アルコール依存症の「パピコ」、ギャンブル障害の姉をもつ「千葉」、窃盗症の「直美」とその父親、薬物依存症の「ユーミン」と、彼女の幼い娘、ユーミンの実妹、そして生活指導員の「塩塚」。さまざまな登場人物がいますが、特に思い入れがあるのは誰ですか?
第2章「花占い」に登場する千葉弟ですね。僕は歩きながらストーリーを考えることが多いんですが、街を歩いていた時にたまたま見かけた人がなんとなく気になって、「この人のストーリーを書きたい」と膨らませていったものが、千葉というキャラクターになりました。
彼はギャンブル障害の姉に対して、家族に迷惑をかけまくっているのにビョーキなんて言えて幸運だとか、(姉が匿名ミーティングで使うニックネームについて)「『親不孝』なんていいんじゃない?」と刺々しい言葉を投げかけたりもしますが、自分もうまくいっていない状況のなかで、根っこにある優しさは失われていないなと思うんです。もしかすると『セゾン・サンカンシオン』の登場人物のなかで一番優しい人なんじゃないかと、僕は思っています。
それから、実は『セゾン・サンカンシオン』が連作短編集の形式になったのも、塩塚が全編通して登場することも、作品全体のトーンも、この第2章を書いたことで定まったような感じがあって。そういう意味でもこの章は重要でした。
―― 街を歩いていてなんとなく目にとまる人に、共通点はありますか?
そうですね……。楽しそうにしている人より、暗い顔でうつむいている人のほうが気になってしまうたちだと思います。「何があったんだろう」って、つい目で追ってしまうし、その人が日々どんな生活を送っているのか想像してしまうんです。
デビュー作は家族の喪失体験を原点に書いたものなんですが、書くことを通して自分自身のなかでも整理がついて、救われた瞬間があったんです。デビュー作を書いていた時は「死」に視線が向いていましたが、徐々に一人ひとりの「生」を掘り下げること、生活を描くことに意識が向かっている感覚があります。
今はジェンダーを題材にした物語を書いているんですが、それも、セクシュアル・マイノリティの方々の「生活」を描く内容です。特殊清掃というあまり知られていない仕事や、医療刑務所という場所、依存症などを通して、あまり知られていないこと、社会から見過ごされてしまっていることを、これからも描いていきたいと思っています。
――『セゾン・サンカンシオン』を読んで、自分が「わかったつもり」になっていることの多さに気付かされました。たとえば、依存症がどういうものか知識としては知っているけれど、自分や身近な人もなりえるものだということがまだ腹落ちしていない。そういう自分がいざ、当事者や家族として依存症に向き合わなければならなくなった時、最初に出る反応は「拒絶」なんじゃないかと思うんです。とはいえ、感情移入しすぎると共依存になりかねない。自分や身近な人の「寂しさ」にどう寄り添えばいいのか、何をすることが手助けになるのか、最後に前川さんの考えをお聞かせください。
依存症に限っていうと、たとえばアルコール依存症には「イネイブリング」という行為があります。これは依存症者本人ではなく、その周囲の人がとってしまう「尻拭い」の行為です。
たとえば、夫が二日酔いで起きてこない時に、妻が夫に代わって会社に病欠の連絡をしてしまう。それから、吐いたものの後始末をする、酒代を渡してしまうというのもこれにあたります。でも過剰な手助けは、関係性を不健全にするし、かえって依存が進行してしまったり、回復を遅らせてしまったりするんですよ。「底つき体験」は死を選ぶことにつながってしまうかもしれないし、かといって、何でもしてあげることも回復につながらない。この距離のとり方は非常に難しいし、とりわけ家族は無意識のうちにイネイブラーになりやすいです。
だから、何をしてあげるかより、何をすべきでないかを知ることが大切かもしれませんね。当事者の回復には、当事者が「自分の行為によって起きたことの責任を自分でとる」ということの積み重ねによって病識を持つことと、周囲の近しい人たちによる「愛のある突き放し」が必要だと思います。「相手との境界線を曖昧にしない」「見守るけれど、必要な場面でしか手は貸さない」ということですね。
それから、作中にもあるように、自助グループなどによる当事者同士のつながりも重要かなと思っています。単純に、アルコールを飲みやすい時間帯に集まって人に会うことで飲酒の機会自体を減らすことができるのと、人の体験を聞くことが「自分も同じ境遇にいる」と自覚することにつながるんです。家族には言えない本音を話せる相手ができるというのも、参加するとよい理由の一つですね。
いずれにしても依存症は、どう回復していくかよりも「まず治療につなげることができるか」が大きなテーマなんです。そのためにはまずSOSを出せる場所、「寂しい」「辛い」と言える状況が必要で、血の繋がりや強固な人間関係に閉じるのではなく、ゆるくても人とのつながりをたくさん持つことが大切だと僕は思います。それは依存症でなくても、人が生き抜いていくうえで必要なものだと思います。何気ない言葉のやりとりが、実はその人を救っていたりしますから。
実は本作は、当初は『セゾン・サンカンシオン』というタイトルではありませんでした。書き始めた頃から「どんな失敗をしても“居場所”であってくれるところ」として存在していましたが、読んでみていただくとわかるように、「セゾン・サンカンシオン」という施設のなかで起きていることはほんの一握りです。でも、登場人物たちはみんな、「セゾン・サンカンシオン」という居場所を通してゆるくつながっています。そういうつながりこそが必要なのではないかという思いから、『セゾン・サンカンシオン』というタイトルになりました。
気ままなフリーター生活を送る浅井航は、ひょんなことから飲み屋で知り合った笹川啓介の会社「デッドモーニング」で働くことになる。
そこは、孤立死や自殺など、わけありの死に方をした人たちの部屋を片付ける、特殊清掃専門の会社だった。
死の痕跡がありありと残された現場に衝撃を受け、失敗つづきの浅井だが、飄々としている笹川も何かを抱えているようで――。(ポプラ社公式サイトより)
「病んだ心を読み解く営みは、健全『すぎる』精神の持ち主には難しい。だからこそ登場人物たちのさまざまな屈託が、物語世界とわたしたちとを結びつけて、(苦いけれど)豊かなストーリーがここに立ち上がる。決して忘れられない読書体験が、始まる。」春日武彦(精神科医)
医療刑務所で勤務することになった精神科医が見たものは、罪と病の間で揺れ動く魂の叫びだった……。
(ポプラ社公式サイトより)