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『心淋し川』で第164回直木賞を受賞した西條奈加さん。4月には、受賞第一作となる『曲亭の家』が発売されています。
『心淋し川』をはじめ、江戸の下町を舞台とした時代小説を生み出してきた西條さんにとって、もっとも思い出深い書店も、下町にあった一軒だそう。その得難い書店での“出会い”について、エッセイを寄せていただきました。
西條奈加
さいじょう・なか。1964年北海道生まれ。2005年『金春屋ゴメス』で「日本ファンタジーノベル大賞」大賞を受賞しデビュー。2012年『涅槃の雪』で中山義秀文学賞、2015年『まるまるの毬』で吉川英治文学新人賞、2021年『心淋し川』で直木賞を受賞。時代小説から現代小説まで幅広く手がける。近著に『亥子ころころ』『せき越えぬ』『わかれ縁』などがある。
20代後半から10年ほど、葛飾区の金町に住んでいた。専門学校の友人の地元で、アパートを紹介してもらい、友人の地元仲間と週末ごとに集まっては飲み会に麻雀、時にはキャンプや日帰り旅行にも出掛けた。先のことなど考えず、とにかくよく遊んだ。
その当時、金町の駅前に、一軒の本屋があった。
個人経営の小さな書店で、店名すら覚えていないが、本屋というとすぐにその店が浮かぶ。
外観はどこにでもありそうな佇まいだが、小さな書店には、店主の好みや嗜好が反映される。
書店の主はおじいさんで、レジをはさんだ事務的な会話しか交わさなかったが、もし本の話をしたら気の合う人だったように思う。
その書店を訪ねるたびに、新たな本との出会いがあったからだ。
いま思うと、ラインナップが独特だった。駅前という立地もあって、棚の8割ほどは、いわゆる売れ筋の本が並んでいたが、私が長居するのは、残り2割の棚の前だった。
明らかに店主の好みと思われる、言ってみればマイナーなレーベルや作品が、各種雑多に詰め込まれた棚が、単行本、文庫、漫画などコーナーごとに存在した。
小説においては、海外の作品をよく購入した。
イェジ・アンジェイェフスキの『灰とダイヤモンド』、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』、ガルシア・マルケスの『青い犬の目』。
ガルシア・マルケスは世界的に著名な作家だが、代表作の『百年の孤独』ではなく『青い犬の目』を置いているあたりが何とも渋いのだ。
しかし、この書店でもっとも思い出深い出会いは、小説ではなく漫画である。
山下和美の「不思議な少年」。
その第1巻が、私が勝手に命名した「店主おススメコーナー」に1冊だけ挟まっていた。
山下和美さんといえば、「天才柳沢教授の生活」をはじめ、十分にメジャーだろうと怒られそうだが、なにせ20年前である。漫画といえば少年少女誌、青年誌も雑誌は置いていたが、単行本となると小さな書店ではスペースが限られていた。
タイトルに吸い寄せられ、かなり高い場所にあったから、背伸びをして棚からとった。表紙を見るなり、これは“買い”だと直感したが、パラパラと頁をめくる。当時は無粋なビニール掛けがなかったから、中を改めることができた。アングルに力があり、人物が魅力的。人間の内面を描くストーリーにも引き込まれた。
以来、すっかりファンになり、昨年完結した「ランド」も愛読した。
作品や作家との出会いは、得難く幸せな経験だ。
もちろん大きな書店に行けば選択肢の幅は広がるが、会社からの帰り道、あるいは週末の午後に、ちょっと立ち寄って気に入りの一冊を見つける。それが醍醐味だった。
小説を書き始めたのも、ちょうどこの頃だった。公募や新人賞の募集要項のために、小説誌や「公募ガイド」なども、幾度か購入した。
金町にいた頃、2作ほど書いて応募してみたが、箸にも棒にもかからなかった。デビュー作となる3作目を書いたのは、江東区に越してからだ。
友人がいたから、その後も金町をたびたび訪れたが、数年後には駅前の書店はなくなっていた。店主の体力的な事情か、あるいは本が売れなくなって経営が立ち行かなくなったのか、理由はわからない。
ただ、大事な友人をなくしたように、寂しさが募った。
ごく普通の佇まいと、ちょっとマニアックな品揃え。
私の中では、いまも得難い空間として存在している。
(「日販通信」2021年5月号「書店との出合い」より転載)
直木賞受賞後第一作。渾身の書き下ろし長篇。小さな幸せが暮らしの糧になる。当代一の人気作家・曲亭(滝沢)馬琴の息子に嫁いだお路。作家の深い業にふり回されながらも己の道を切り開いていく。横暴な舅、病持ち・癇癪持ちの夫と姑……修羅の家で見つけたお路の幸せとは?「似たような日々の中に、小さな楽しみを見つける、それが大事です。今日は煮物がよくできたとか、今年は柿の木がたんと実をつけたとか……。そうそう、お幸(さち)が今日、初めて笑ったのですよ」(本文より)
〈角川春樹事務所 公式サイト『曲亭の家』より〉
・第164回芥川賞に宇佐見りん「推し、燃ゆ」、直木賞に西條奈加「心淋し川」 ともに初ノミネートで受賞
・〈インタビュー〉西條奈加さん『ごんたくれ』 二人の絵師の数奇な生き様を描く