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萩尾望都さんによる12万字の書き下ろしエッセイ『一度きりの大泉の話』が、4月22日(木)、河出書房新社から発売されることになりました。
手塚治虫さんや藤子不二雄さんが集った“トキワ荘”のように、多くの女性漫画家たちの交流の場だった「大泉サロン」。しかし、少女漫画の礎を築いた伝説的女性漫画家たちの若き日々について、これまで多くのメディアが取材を申し込んだものの、萩尾さん自身の口から直接語られることはありませんでした。
『一度きりの大泉の話』では、1970年10月から2年間続いた“大泉時代”の回想や、大泉を出て田舎へ引っ越した理由、当時の交友関係、創作への思い、漫画への愛など、若き日々から現在の心境までが綿密に綴られます。
表紙を飾る装画は『ポーの一族』連載時に描かれたもので、1976年発行の雑誌に一度掲載され、以降単行本にも収載されていない大変貴重なもの。さらに本書には、当時の未発表スケッチや、31ページの漫画も収載されています。
▼『一度きりの大泉の話』より一部抜粋
ちょっと暗めの部分もあるお話 ──日記というか記録です。人生にはいろんな出会いがあります。これは私の出会った方との交友が失われた人間関係失敗談です。(「前書き」より)
──私は一切を忘れて考えないようにしてきました。
考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不良になるからです。
忘れていれば呼吸ができました。体を動かし、仕事もできました。前に進めました。
これはプライベートなことなので、いろいろ聞かれたくなくて、私は田舎に引っ越した本当の理由については、編集者に対しても、友人に対しても、誰に対しても、ずっと沈黙をしてきました。
ただ忘れてコツコツと仕事を続けました。
そして年月が過ぎました。静かに過ぎるはずでした。
しかし今回は、その当時の大泉のこと、ずっと沈黙していた理由や、お別れした経緯などを初めてお話ししようと思います。(「前書き」より)
──私はいい人たちに出会った。
一緒に住もうと言ってくださり、家を探してくださった。
私はやっと自由に漫画を描ける環境を手に入れたのです。
親にも誰にも気を遣わず漫画が描けて、漫画が読めて、漫画の話ができる。
夢のようです。さあ、始めよう。(「2 大泉の始まり ― 1970年10月」より)
──お話をずっと考えていると、深い海の底から、または宇宙の星々の向こうからこういうものが突然落ちてくることがある。
落ちてこない時はただ苦しいだけだけど、でも、それがふっと目の前に現れる時、宝物を発見した、という気持ちになります。
自分が見つけたというより、エーリクが見つけてくれた、そういう気分になります。
そしてこの言葉を見つけたことで、『トーマの心臓』を描いて本当に良かったと思いました。(「17 『ポーの一族』第1巻 1974年」より)
目次(※一部)
・前書き
・出会いのこと ― 1969年~1970年
・大泉の始まり ― 1970年10月
・1972年『ポーの一族』
・海外旅行 1972年9月
・下井草の話 1972年末~1973年4月末頃
・『小鳥の巣』を描く 1973年2月~3月
・緑深い田舎
・引っ越し当日 1973年5月末頃
・田舎と英国 1973年
・帰国 1974年
・『トーマの心臓』連載 1974年
・『ポーの一族』第1巻 1974年
・オリジナルであろうと、原作ものであろうと
・排他的独占愛
・鐘を鳴らす人
・BLの時代
・それから時が過ぎる 1974年~2017年
・お付き合いがありません
・あとがき(静かに暮らすために)
【特別掲載1】「萩尾望都が萩尾望都であるために」(文・マネージャー 城章子)
【特別掲載2】萩尾望都が1970年代に描き溜めた未発表スケッチ
【特別掲載3】マンガ『ハワードさんの新聞広告』31ページ
〈著者プロフィール〉
萩尾望都(はぎお・もと)
漫画家。1949年、福岡県生まれ。1969年デビュー。SFやファンタジーなどを巧みに取り入れた壮大な作風で唯一無二の世界観を表現し続け、あらゆる方面から圧倒的なリスペクトを受けている。1976年『ポーの一族』『11人いる!』で第21回小学館漫画賞、1997年『残酷な神が支配する』で第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞、2006年『バルバラ異界』で第27回日本SF大賞、2012年に少女漫画家として初の紫綬褒章、2017年朝日賞など受賞歴多数。