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第149回直木賞を受賞した『ホテルローヤル』が映画化され、11月13日(金)より公開される桜木紫乃さん。今年9月には、真正面から家族の形に取り組んだ、『ホテルローヤル』の“その後”ともいえる『家族じまい』で、第15回中央公論文芸賞を受賞しています。
生粋の釧路人で、北海道を舞台とした作品を精力的に生み出している桜木さんは、故郷の街の書店にも特別な思い出があるのだそう。当時のエピソードとともにその思いを綴っていただきました。
桜木紫乃
さくらぎ・しの。1965年、北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞をそれぞれ受賞。
生まれ育って結婚して子供を生んだ土地には、女の一生の3分の2が埋まっている。残り3分の1は、それを糧にどう老いてゆくかだ。
北海道の東側、釧路という街に埋めてきたものの中に、その後小説を書くこととなる種のほとんどが含まれている。記憶は宝だ。
釧路は、漁業と炭鉱とパルプで経済が回っている街だったが、時代の流れとともにそのすべてが力を失っていった。街の活気はまず、駅前の景色に色濃く表れる。北海道のどの街もそうであったように、私の故郷もまた駅前から腕力を失っていった。
海のそばの公務員宿舎に住み、子供が昼寝をしている隙に、歩いて5分の場所にある生協で食材を買って晩ご飯を作る。毎日がその繰り返しの中で、ときどき頭に浮かんでくる景色を文章に書いたりしていたころのことだ。
宿舎から太平洋炭鉱のズリ山があるちいさな峠を登って下りたところ、炭鉱関係の事務所が在った場所に、大きな建物が建った。工事中、街の人間の多くはそこが「書店」だとは思わなかった。噂だけが横行する。
あそこ、なに建つんだべか。あんだけ大きいのは映画館ではないか。今どきかい。炭鉱の建物が根こそぎなくなったよ。なんだか本屋らしいんだけど、知ってる? まさか。
外観が現れてからは、そのデザインから誰もが「パチンコ屋か」あるいは「ラブホテルだ」と大騒ぎ。私も前を通るたびに自分には関係のない建物だと思っていた。
準備万端、さあ開店という広告が打たれたとき、街の人間は隅々までそこがやはり「本屋さん」であったことを知ったのだった。
本、音楽、食、文具―産業の衰退が著しい街の郊外に巨大な娯楽が現れたとき、誰もが驚き群がった。駐車場前に並ぶ車の列をまだ覚えている。
生活するので手いっぱいの財布事情のなかに、ウインドウにせよショッピングという優雅な娯楽はない。映画も夫婦ふたりで行けば数日分の食費が飛ぶ。炭鉱が栄えていたときは、同じ地域に「太平洋スカイランド」という温泉施設があって、そこには子供たちが憧れる温水プールがあった。子供の頃は一度行ったら1年はその記憶だけで楽しく過ごせる場所だったが、それも過去のもの。
思えば、誰もが娯楽のない日々に慣れてしまっていた。転勤族の女房となり、他の都市からやってくる家族にも出会ったが、みな一様に「異動先が釧路と聞いて泣いた」人ばかりだった。
生粋の釧路人が建てた本屋には、庶民が手を出せる娯楽がひしめいていた。男たちは街角で一杯やってから帰宅するが、女たちは子供たちを寝かしつけたあと、ほっとひと息つく場所がない。その書店は夜12時まで開いているという。
買う買わない、使う使わないの選択は棚に上げて、小銭入れひとつ持ってお店に行けば、煌々とした照明の中に、本や雑誌、文具や雑貨が並んでいる。欲しいものが溢れているお店で、自分が買えるものは、ノート1冊かレターセットくらいだったけれど。寝付けない夜に、ドーナツをふたつ買って帰り、夫婦で食べたことも切ない思い出になった。
いまその書店の周りには、寿司屋・焼き肉屋といった飲食店やドラッグストア、スーパーも建ち並ぶ。湖を見下ろす坂の下は、家族が半日遊べる買い物ゾーンとなった。
あの大きな書店の片隅に自分の本が置かれることを想像もしなかった日々、子育ての息抜きを許してくれた空間は、今も誰かの呼吸を楽にしているのだろう。いつかここに自分の本を、あるいはCDを、と思う誰かの夢を支えているに違いなく。本、音楽、文具、食――四頭立ての馬車が「コーチャンフォー」という名だったことを改めて思いつつ。わたしも釧路生まれの釧路人、人生残り3分の1は好きに走る。
「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」
突然かかってきた、妹からの電話。認知症の母と、かつて横暴だった父。両親の老いに戸惑う姉妹。
別れの手前にある、かすかな光を描く長編小説。〈集英社文芸ステーション『家族じまい』より〉
(「日販通信」2020年11月号「書店との出合い」より転載)
・映画「ホテルローヤル」主演は波瑠! ラブホテル経営者の一人娘、原作・桜木紫乃が自身を投影したキャラクター