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1997年に『ウエンカムイの爪』でデビューし、2004年に大正~昭和初期の秋田県を舞台に狩猟生活を営む「マタギ」を描いた『邂逅の森』で、山本周五郎賞と直木賞をダブル受賞した作家・熊谷達也さん。奈良時代の蝦夷の指導者・伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が主人公の『荒蝦夷』や、アイヌに伝わる伝説の狼を追う老猟師を描いた『銀狼王』など、東北地方の自然や人々を題材とする小説を多く執筆していらっしゃいます。
熊谷さんご自身は、宮城県仙台市出身・在住。小説家としてデビューする前は中学校で3年間教鞭をとり、その後保険代理店へ勤めていらっしゃったそうです。
そんな熊谷さんの最新作『希望の海 仙河海叙景』は、熊谷達也さんが教員時代を過ごした気仙沼市をモデルにした「仙河海(せんがうみ)市」という架空の街が舞台。
会社を辞めて故郷の仙河海に戻り、走ることで鬱憤や悩みを解消していた元陸上選手を描く「リアスのランナー」、認知症を患いグループホームに入所した夫と、回復を願いながら一人で暮らす妻との深い夫婦愛を感じさせる「永久なる湊」といった震災前の暮らしが7編、津波で両親と家を奪われた兄妹が、止まっていた“時”と向き合う「ラッツォクの灯」などの震災後を描いた物語が2編収録された、連作短編集となっています。
『希望の海 仙河海叙景』が発売されたのは、2016年3月4日。“あの日”からの5年間を熊谷さんがどう過ごしたのか、どんな気持ちで『希望の海』を書いたのか。まずは刊行にあたって熊谷さんが綴った心の内を、読んでみてください。
東日本大震災の発生からほぼ三週間後の二〇一一年四月一日、私は宮城県気仙沼市の市街地から十キロメートルほど南に位置する浜辺に立ち尽くしていた。仙台市内で調達した、食料品を中心とするささやかな救援物資を積み込んだ車で、気仙沼市に向かう途中だった。
私が立ち寄った浜辺は、子どものころ、家族と一緒に時おり訪れていた海水浴場だ。小さな子どもでも安心して遊べる、波が穏やかな浜辺だった記憶がある。
この日の海も穏やかだった。ほぼ快晴の空の下、真っ青な海がキラキラと輝いて美しい。だが、浜辺に佇む私の周りには、異様な匂いが漂っていた。決して悪臭ではない。だが、青く輝く海辺にはまったくそぐわない匂いだ。濃密な土の匂いが充満しているのである。本来あるべき磯の香りは消えている。あの大津波が海底を攪拌しながら押し寄せ、家々を破壊しつつ押し流し、さらには陸地の表土を削り、カオスを残して再び海へと去って行ったあとの置き土産が、土の匂いだった。
異様な土の匂いに包まれて、空と海から足元へと視線を転じれば、あったはずの砂浜は消え、瓦礫で埋め尽くされた真っ平らな半島が横たわっている。私が立っている位置からは見えないはずの水産高校(気仙沼向洋高校)の校舎が、視界を遮るものが消えたせいで、白く輝いて目に映る。遠目からは一見無傷に見えるその校舎も、近くに寄れば津波に蹂躙された傷跡も生々しく、窓を突き破って校舎の中に入り込んだ乗用車が、夥しい瓦礫と絡み合ってひしゃげている。
言葉を失ったまま浜辺を離れたあと、津波で剥がされたアスファルトのかわりに、ところどころ土嚢が敷き詰められ、かろうじて復旧したばかりの国道をさらに北上した。海側にあったはずのJR線の線路が、国道を越えて内陸側に運ばれ、飴細工のようにねじ切れている。そんな光景の中を走ってようやく辿り着いた気仙沼の市街地は、無残としか言いようのない姿に変わり果てていた。
中学校の教員をしていたころ、私はこの街に三年間ほど暮らしていた。私が勤務していた学校(気仙沼中学校)の学区のほぼ半分が、津波に襲われ、炎に焼かれた。
自衛隊の車両とテントがひしめく中学校の校庭の片隅に車を停めた私は、歩ける範囲で街を歩いた。海面の高さまで地盤沈下した港には、数百トンクラスの焼け焦げた漁船が横付けされている。陸に打ち揚げられた大小の漁船が、手つかずのままあちこちに放置されている。呆然として街を彷徨う私のすぐそばでは、自衛隊員が瓦礫の中に残されているかもしれない遺体の捜索を続けている。家庭訪問をした記憶のある昔の教え子の家が、半壊状態で打ち捨てられている。しょっちゅう呑みに繰り出していた居酒屋が入った雑居ビルは、一階部分がぶち抜かれて見る影もない。
言葉が無かった。何も言葉が出てこなかった。言葉そのものが存在しなかった。「言葉を失う」とはどういうことか、その本当の意味をこれまで知らなかったことを、この日の私は嫌というほど思い知らされた。
この現実を前に、小説はあり得ない。そう思った。
言葉には力がある? そんなのは戯言だと思った。戯言と切って棄てるのが酷だと言うのなら、言葉の力に縋りたい者の必死の願いとでも言おうか。
この日から、なぜか私は、毎週のように宮城県内の沿岸部に通い始めた。何をするでもなく、ひたすら荒れ果てた浜辺を凝視し続けた。もしかしたら、私の中に言葉が戻って来るか否か、密かな期待をしつつ、自分を試していたのかもしれない。
結局、期待していたような言葉は戻って来なかった。端的に言えば、この先、小説はもう書けないだろうと思った。矛盾するようだが、震災時に抱えていた幾つかの連載に関しては、最後まで書けるのがわかっていた。震災以前に蓄積していた言葉によって編むことが、かろうじて可能であるからだ。しかし、新たな小説を書くために必要な言葉の群れは、私の中には戻って来ないし、生まれもしないだろうと観念した。
そして私は、小説そのものが読めなくなった。まるで不感症にでもなったように、小説の世界に入り込めなくなった。子どものころからあれほど本が好きだったにもかかわらず、何の面白みもリアリティも小説に感じられないのである。よくても最初の数ページ、たいていの本は、読み始めてわずか数行で放棄した。何とか最後まで読み通せた小説も、あるにはあった。だが、以前には得られた読後の充足感が、まったくと言ってよいほど得られなかった。そうしているうちに、落胆するのが嫌で、小説を手に取ることもしなくなった。
小説を楽しめなくなった者がまともに小説を書けるわけがない。実に単純な話である。震災後の数ヵ月間、残っていた連載仕事を続けながらも、大いなる自己矛盾の中で私はパソコンに向かい、悶々としていた。
そんな私に転機が訪れたのは、震災の年の夏だった。かれこれ四半世紀近くも、夏の北海道をオートバイで走ってきた。どうしようかと迷ったのだが、例年通り、北海道に渡ることにした。青森港からフェリーに乗って津軽海峡を越えた函館が、北海道ツーリングの際のベースキャンプになっている。
函館駅の近くにある馴染みのショットバーに顔を出した際に偶然出会ったのが、函館出身の作家、佐藤泰志の『海炭市叙景』だった。「海炭市」とは函館市をモデルにした架空の街だ。そこに暮らすごく普通の人々の日常を切り取った群像劇である。その作品を原作とした同名映画(宇治田隆史脚本・熊切和嘉監督)のロケが函館であり、バーのママさんやスタッフがエキストラで出演したのだという。
バーに置いてあった販売用の文庫本を買って仙台に戻った。細かいことは言わない。仙台に帰ってから読んだ『海炭市叙景』は、圧倒的なまでにリアリティの塊だった。小説には、まだ残されている力があるのかもしれない。微かに希望が見えたように思えた。私なりの言葉と方法論で、こんな小説を書けるなら書いてみたい。切実にそう願った。
震災の翌年の秋、気仙沼市をモデルにした架空の街の名前が決まった。「人」、「山」、「河(川)」、「海」のすべてを込めて「仙河海市」とした。と同時に、失くしたと諦めていた言葉が、戻って来たように思えた。ただし、以前と同じではない。明らかに姿を変えている。が、この物語を完成できそうな手応えは確かにあった。そして、ほぼ三年がかりで完成に漕ぎ着けたのが『希望の海 仙河海叙景』である。客観的な本の出来は、私にはわからない。だが、震災から五年という一つの節目に間に合わせることができて、個人的にはとても満足している。
(集英社「青春と読書」3月号より)
※こちらでも読めます▶ http://renzaburo.jp/kibounoumi/(集英社の文芸単行本公式サイト「RENZABURO」内)
「炎の営業日誌」で知られる本の雑誌社の杉江由次さんも、ご自身のtwitterでこのように語っていらっしゃいます。
震災三週間後、中学校の教員時代に勤務していた気仙沼を訪れ、言葉を失うということの本当の意味を知り、小説なんてありえないと思った作家が、夏に訪れた函館で佐藤泰志『海炭市叙景』(小学館文庫)と出会い、もう一度小説を信じることができ、三年かけ書き上げた熊谷達也『希望の海』(集英社)。→
— 杉江由次 (@pride_of_urawa9) 2016年3月10日
→集英社のサイトに記されている「失くした言葉の先に」を読んで震えた→https://t.co/aVtX1o03BE あわてて買い求め、読み始めたら、港町仙河海市で暮らす人々の喜び、悲しみ、苦しみ、希望、絶望が圧倒的なリアリティで描かれていた。もちろん街そのものも。→
— 杉江由次 (@pride_of_urawa9) 2016年3月10日
→描かれるのは震災後のこれまた「暮らし」だ。昨日があって、今日があり、明日が来る。『希望の海』は、「失くした言葉の先に」産み出されたすごい小説だった。
— 杉江由次 (@pride_of_urawa9) 2016年3月10日
一度は失くした言葉たちは、熊谷さんのもとにどんなふうに戻ってきたのか。『希望の海 仙河海叙景』をぜひ一度読んでみてください。よろしければ、『海炭市叙景』もあわせてどうぞ。